見出し画像

分かり合えない躁鬱人⑪

こんばんは。まなみんです。

今回は分かり合えない躁鬱人シリーズ第11弾!

マガジンはこちら↓↓↓

今回のテキストはこちらの中間部分↓↓↓

楽しむこと自体がそのまま学習になります。
こんな愉快なことがあるでしょうか。
「楽しんでばかりいて、ちゃんと努力しなさい!」みたいな非躁鬱人の心無い発言が聞こえてくるかもしれません。
しかし、ここは一つ、無視してみてください。
大事なことは「怒り」を発露しないことです。
「なんでそんなことを言うんだ、お前は俺の気持ちをわかっていない!」
なんてことは言う必要はありません。
それ自体が鬱へのハイウェイです。
「わかりました!」とかなんとか前向きそうな適当な返事をしておいて、その人が見ていないところで、さらにその楽しみを続けるのです。

「楽しむことがそのまま学習になる」

なんて愉快なのでしょうか。

私たちは今まで我慢しすぎていたみたいですね。


決して、深刻な顔をして努力とかしないでくださいね。
これもまた非躁鬱人たちが作り上げた、学習法なのですが、躁鬱人にとっては毒でしかありません。
しかし、われわれ躁鬱人は世界の人口77億人に対し、発見されている数が6000万人と言われてますから、1パーセント強くらいしかいません。
やはり少数民族であることは間違いありません。
そのため、躁鬱人への教育を、一般教育課程に盛り込ませるなんて政治的行動はほぼ不可能になります。
多数決な世界で、政治的に盛り込むなんてことは不可能なわけです。
無理なところで、ゴリゴリ努力しつつ、歯向いつつ、必死に食らいついて、勝ち取るみたいなことは躁鬱人には一切向いていませんので、さっさと諦めて、逃げて、違うところにいきましょう。心地よいところにいましょう。

そう考えると心が楽ですね。

私は躁状態のとき、非躁鬱人の真似をして努力しすぎました。そして鬱が来ました。

今では逃げることが一番大事なんだなと思います。


いいんです。躁鬱人への教育は躁鬱人によって行えばいいんです。
だから非躁鬱人に怒らないでください。
別の人間、なんなら、別の生き物だと思って、でも「お前は別の人間だ」なんてことは言わずに、ニコニコ無視して、こちらはこちらのやるべきこと、いや、やるべきことなんか何もないのが躁鬱人ですので、こちらはこちらのやりたいことだけ飽きるまでやっていきましょう。
躁鬱人にとっての「飽き」は、非躁鬱人のそれとまるで違います。
「飽き」は天の恵みみたいなものです。
実りです。何を思いついて、それで行動した、すぐ行動した、思うままにやった、誰からも学ばずに自分なりの方法で適当に試してみた、面白かった、心地よかった、そして、翌日、飽きた。

非躁鬱人を別の人間だと思うことは躁鬱人にとって大事なことだと思います。

何か言われたとしても「はいはい」と言って軽く受け流す。そんな技術が躁鬱人には必要なのではないでしょうか。

そしてわたしも飽きっぽいです。めちゃくちゃに何かを追い求めて、満足がいったらすぐまるっきり投げ出す。

そうやって生きてきたなと今振り返ると思います。


非躁鬱人の世界ではこういう人を信用してはならない、雇用してはならない、みたいに教育しているようです。
しかし、躁鬱人は違います。
飽きた、と言えることは、技術です。
やりたくないものをそれでも一度始めたのだから、やらないといけない、みたいな思考回路は、躁鬱人にとって害悪にしかなりません。
やりたくないことは、一切やらないでくださいね。
これまで受けてきた教育と少し違うかもしれませんが、だからこそびっくりというよりも、きっとこれを読んでいる躁鬱人のあなたは少し気が楽になっているはずです。
なぜなら、僕が気を楽にさせたいと思っているからですし、そう心から願っているからです。
「ちゃんと」できないと悩んできたじゃないですか。
悩んできた方には申し訳ないんですが、その「ちゃんと」が全く効果がないのが躁鬱人です。
それどころか、鬱になる原因になってしまいます。

そうですね、この社会には「飽きた」は通じません。

それでも飽きてしまうのが躁鬱人。

もう、割り切って「ちゃんと」することをやめましょう。

わたしも「ちゃんと」できなくて劣等感を感じて、自分を責めて鬱になります。

やりたいことをやりたいだけやる。それが躁鬱人に合った生活なのだと思います。


カンダバシももちろん、そのことについても言葉を残してます。
ずっと下の方にいって、7段落目の1行目です。
「資質に合わない努力はしないのが良いようです。
『きちんと』とか『ちゃんと』とかは窮屈になるからだめです」
 これ読むだけで、気持ちがスーッと晴れていきませんか? 
僕は自分が欲しがっていた言葉がそのまま目の中に飛び込んできて、まるで湧き水でも飲んでいるように乾きが取れて潤います。
ちゃんとしなきゃと感じるときってどういう時かというと、簡単に言うと、やりたくないときなんですよ。
そして、飽きたときなんですね。もう満足した。一回やってみて、自分としては心地よくなって、どういう感触になるかはわかった。
それでもう満足なんです。

うん。逆になぜ非躁鬱人は一つのことだけにそんなに時間をかけるのでしょうか。

気になることには飛び込む、そして自分なりに納得したら離れる。

わたしからしたらそれが当たり前なのだけれどなぁ。

とにかく、鬱にならないためにはやりたくないことからは離れるのが大事みたいです。


それなのに「人として、威厳のある大人として、飽きたからといって、やりたくないからといって、すぐに放り投げるのはどうなのか?」という言葉が頭をちらつくじゃないですか。
あれ「人として」ではないです。「非躁鬱人として」ってことです。
躁鬱人がそれをやると、ほんとぎこちない人生になるので、やめておきましょう。
非躁鬱人の常識は、躁鬱人の非常識です。
だから、とにかくぶつかります。
そのままむき出しで生きていると、衝突してしまうんです。
それがたとえ家族だったとしても衝突は避けられません。
躁鬱人の家族が全て躁鬱人であるとは限らないからです。
遺伝である可能性は高いようですが、かといって、全員が躁鬱人ではないのです。だから躁鬱人は、孤児のような経験をします。
まず両親が躁鬱人でない場合が多いですし、両親が躁鬱人であったとしても、彼ら自体が躁鬱人としての教育を全く受けておらず、むしろ非躁鬱人として育てられている可能性の方が高いため、その場合、彼らが「ちゃんと」やれと言われ、「ちゃんと」やろうとしてきて、躁鬱人ですから当然ながら「ちゃんと」できませんから、より一層「子供にはちゃんとしてほしい」となってしまいますので、どんどんこじらせちゃいます。だから現在ではほとんどの躁鬱人が孤児状態にあります。
これはなんとかしなくてはなりません。

うーん。私が今まで辛かったのは非躁鬱人のために、非躁鬱人に従って生きてきたからなのでしょう。

衝突する前に非躁鬱人に擬態して、耐えてきたから私の鬱が発動したのかなと思います。

だからこそ、僕はいのっちの電話と称し、09081064666という自分の携帯電話番号を公開しているわけです。
いのっちの電話は躁鬱人孤児センターの役目も担っているわけです。
しかし、百人に一人は躁鬱人が確認されているわけですから、周囲にはいなくても、ちょっと探せばすぐに見つかるくらいにはいます。
だから完全に孤独ではありません。
そのためにも周囲の非躁鬱人、もしくは非躁鬱人の教育を受けて育った躁鬱人たちとの衝突をできるだけ避けていきたいところです。
だからこそ、資質に合わない努力はしない、ということも大事ですが、その前に、資質に合わない努力をしないでいられるような環境づくりもまた重要なことになってきます。

さて、太字のところはどんなことなのでしょうか。

それは、また次回。


私は双極性障害を研究したいと考えています。



だからたくさんの躁鬱人と繋がりたい。
そして、サークルを立ち上げました。


今現在、加入者が6人です。少しづつ人数が増えています。ありがとうございます。

しかし、さらにたくさんの人と気軽にお話ししたい。


本当は無料で招待したいところですが、お金を払って下さる方と平等にしたいので申し訳ありませんが100円お支払い下さい。


質問などあればコメント下さい。

サークルでやりたいことも募集中です。

よろしくお願いいたします。











この記事が参加している募集

#スキしてみて

525,489件

サポート嬉しいです😭 💙Twitter(主にコーヒー) >>>https://twitter.com/manamincoffee 🎀Instagram(主にカフェ) >>>https://www.instagram.com/manaminmushi0229/?hl=ja