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罪悪感を抱くかわりに、祈り願える人になる。

「ただの自分」で生きることを
豊富のような何かとして胸に抱こうとしている。

のだけど、実際に
罪悪感を持たずに生きるということは
中々に困難で、
ことあるごとに自分の中の罪悪感が

自分の選択に、
自分の決断に、
自分の行動に、

「それでいいの?」

と、問いを投げ掛けてくる。

罪悪感の元となるのは
自分の中にある常識感だったり、
世の中を基準にした正義感だったり、
世間的に見て悪い子になりたくない
どこか小狡い気持ちだったりするのだけど、

罪悪感の対象はいつでも
何かしらの行為や行動といった
「物事」でありながら、
その先にいる特定・不特定の
「誰か」に対して湧き上がってくる。

私たちはいつでも
「誰か」に対して
遠慮があって、配慮をしながら生きている。

罪悪感とは何か?

罪悪感(ざいあくかん)(guilt)とは、
罪をおかした、悪いことをした、
と思う気持ちのことである
Wikipediaより抜粋

罪をおかした、悪いことをした、
と思う「気持ち」のこと。

何に対して罪悪感を持つかは
その気持ちを発動する「人」によって違って、
私には私の、他の誰かにはその人自身にとっての
罪悪感が発動する「物事」や
その先の「誰か」の存在がある。

だけど1つ確かなことは、
罪悪感はあくまでも
それを持つ当人の気持ちでしかなくて、
実際に罪をおかしているかどうか、
悪いことをしているかどうかは、
当人の気持ちとは別のところにあるのだ。

誰かに対して「悪いな」って
罪悪感をもってしまうと、
どこか負い目を感じてしまって
目の前の物事やせっかく選んだ物事を
心から楽しめないし、満足できない。

というか、罪悪感によって
「そもそも選べない」ことすらある。

一方で、罪悪感を免罪符に
「私は悪いと思ってますよ」
と、表向きなアピールをしながら、
実はしっかり選んで、
行動して、楽しんでいることもあったりする。

罪悪感は、社会の常識や自分以外の誰か、
自分の気持ちを守るためにも発動しやすい。

けれど思う。

罪悪感をもつことは
実は相手にとって失礼かもしれないし、
罪悪感をもっていることを
相手に感じさせることは、
かえって気を遣わせることにも繋がりかねなくて、
どちらも人としてのマナー違反にあたるかもしれない。

罪悪感をポーズとして使うのは、
自分も相手も嫌な気持ちにならないための
処世術の1つではあるけれど、
どこか歪んでいると感じる。

だから実は、
罪悪感を持つこと自体に、
罪悪感を元に
自分の行為・行動を決めることにこそ、

「それでいいの?」

と、問う必要があるのかもしれない。

罪悪感は持つ必要がない。

そんなようなニュアンスのことを書いたけれど、
罪悪感は、誰かに向けられた
やさしい気持ちの表れでもある。

そのやさしさは褒められこそすれ、
決して咎められることではないと思うし、
他者を思えるその心は、とても素敵なもの。

でも、だからこそ。

そのやさしさは「罪悪感とは違ったもの」で、
自分も誰かも大切にできるカタチで
表現できたらいいなと思う。

罪悪感をもたずに、
自分が本当に向かいたい方向に進みながら、
罪悪感の向かう先にいる誰かのために
祈り、願えたらいいなと思う。

"私の行為や行動とは全く違う別のところで、
私のあずかり知らぬところで、
その人が幸せでありますように。"

罪悪感を抱くかわりに、
祈り願える人になりたい。

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