![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/9231145/rectangle_large_type_2_88649156408b3106a80ff974e8720c1c.jpeg?width=1200)
罪悪感を抱くかわりに、祈り願える人になる。
「ただの自分」で生きることを
豊富のような何かとして胸に抱こうとしている。
のだけど、実際に
罪悪感を持たずに生きるということは
中々に困難で、
ことあるごとに自分の中の罪悪感が
自分の選択に、
自分の決断に、
自分の行動に、
「それでいいの?」
と、問いを投げ掛けてくる。
罪悪感の元となるのは
自分の中にある常識感だったり、
世の中を基準にした正義感だったり、
世間的に見て悪い子になりたくない
どこか小狡い気持ちだったりするのだけど、
罪悪感の対象はいつでも
何かしらの行為や行動といった
「物事」でありながら、
その先にいる特定・不特定の
「誰か」に対して湧き上がってくる。
私たちはいつでも
「誰か」に対して
遠慮があって、配慮をしながら生きている。
*
罪悪感とは何か?
罪悪感(ざいあくかん)(guilt)とは、
罪をおかした、悪いことをした、
と思う気持ちのことである
- Wikipediaより抜粋
罪をおかした、悪いことをした、
と思う「気持ち」のこと。
何に対して罪悪感を持つかは
その気持ちを発動する「人」によって違って、
私には私の、他の誰かにはその人自身にとっての
罪悪感が発動する「物事」や
その先の「誰か」の存在がある。
だけど1つ確かなことは、
罪悪感はあくまでも
それを持つ当人の気持ちでしかなくて、
実際に罪をおかしているかどうか、
悪いことをしているかどうかは、
当人の気持ちとは別のところにあるのだ。
*
誰かに対して「悪いな」って
罪悪感をもってしまうと、
どこか負い目を感じてしまって
目の前の物事やせっかく選んだ物事を
心から楽しめないし、満足できない。
というか、罪悪感によって
「そもそも選べない」ことすらある。
一方で、罪悪感を免罪符に
「私は悪いと思ってますよ」
と、表向きなアピールをしながら、
実はしっかり選んで、
行動して、楽しんでいることもあったりする。
罪悪感は、社会の常識や自分以外の誰か、
自分の気持ちを守るためにも発動しやすい。
けれど思う。
罪悪感をもつことは
実は相手にとって失礼かもしれないし、
罪悪感をもっていることを
相手に感じさせることは、
かえって気を遣わせることにも繋がりかねなくて、
どちらも人としてのマナー違反にあたるかもしれない。
罪悪感をポーズとして使うのは、
自分も相手も嫌な気持ちにならないための
処世術の1つではあるけれど、
どこか歪んでいると感じる。
だから実は、
罪悪感を持つこと自体に、
罪悪感を元に
自分の行為・行動を決めることにこそ、
「それでいいの?」
と、問う必要があるのかもしれない。
*
罪悪感は持つ必要がない。
そんなようなニュアンスのことを書いたけれど、
罪悪感は、誰かに向けられた
やさしい気持ちの表れでもある。
そのやさしさは褒められこそすれ、
決して咎められることではないと思うし、
他者を思えるその心は、とても素敵なもの。
でも、だからこそ。
そのやさしさは「罪悪感とは違ったもの」で、
自分も誰かも大切にできるカタチで
表現できたらいいなと思う。
罪悪感をもたずに、
自分が本当に向かいたい方向に進みながら、
罪悪感の向かう先にいる誰かのために
祈り、願えたらいいなと思う。
"私の行為や行動とは全く違う別のところで、
私のあずかり知らぬところで、
その人が幸せでありますように。"
罪悪感を抱くかわりに、
祈り願える人になりたい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?