見出し画像

どっちが好き? #あの選択をしたから

「あんたはどうせ言っても聞かないから」私が母に「どねいしよう」と聞いた時に子供の頃からいつも母に言われた。母の意見を求め、それに従う姉と真反対の私。でも私に言わせれば、意見を聞かないわけではない。ちゃんと参考にはさせてもらう。ただ、どうするか自分で決めるだけだ。だって、私の人生、後悔したくないから。死ぬ時がきたら、閻魔様の前で、「自分を守るための嘘だけはつきませんでした。好きなことをした人生で、後悔はしていません」そう言える人生を歩む。それが、小さな子供の時代から変わらぬ私のモットーだ。好きなことをする、それは決して楽なことをする、ということではない。

「世界中の人を感動させる映画を作りたい」、その目標のために、文字通り、24時間、寝る間もないほどに働いた。最も撮影状況が厳しいと評判の大映テレビ、山口百恵赤シリーズの後番、榊原郁恵ちゃん主演の青シリーズで、スクリプターとしてスタートし、その後助監督、そして、フリーの記録になり、テレビシリーズ、2時間ドラマ、ロマンビデオ、がむしゃらに働いた。助監督だった男性と結婚もした。35歳、ようやくスクリプターとしてのキャリアを積んだ。そしたら、バブルが弾け、制作費がガタ落ちし、「ギャラが高いから、若い子を使う」と言われるようになった。

あー、「世界中をバックパックで回る」、そんな夢も有ったなー。

高校を卒業し、横浜放送映画専門学校(日本映画学校)に入り卒業。20歳で仕送りが終わった。テレビ制作会社の下っ端になんとか潜り込み、月収6万円、制作助手、監督助手、その他諸々、として働きはじめ、ようやく、スクリプーターの見習いで大映テレビで働けることになった。母親に、見習い期間の間だけ、もう一度、生活費を援助して欲しいと頼み、その後は、親に頼らずに東京で生活し、海外旅行なんて夢のまた夢。仕事が有る時はお金が有り、暇な時はお金が無かった。

バブルが弾けて、テレビはバラエティばかりになり、Vシネマなども制作状況が著しく悪くなり、ドラマ制作のフリーとして働ける仕事の場が減った時、もう一度、自分の夢を考え直した。人生70まで現役として、35歳、人生の折返し地点に立っていた。女としても、子供を生むか生まないか、まさに人生の分岐点。子供が大好きで、子供を持たないことなど考えたこともなかったけど、どうしよう。今の夫の子供を作りたい?

そうだ、もう一つの夢だった、世界をバックパックで回ろう、そしてもう一度何がしたいか考えてみよう!

まずは手始めに、仕事で知り合った人を頼って、アメリカに旅立った。デルタ航空の一ヶ月乗り放題チケットを買って、夫と、レンタカーで、一ヶ月アメリカの自然公園と、映画の名場面の場所を回ることにした。高校を卒業しして以来走り続け、初めての長期休暇だった。

フリーは、仕事を受けなければ、収入もなくなるが、自由だ。1991年7月、生まれて初めてパスポートを取って、アメリカに旅立った。

最初は唯一の知り合いが居るサンフランシスコから始まり、ロサンジェルスへ車で移動。そこでキャンプ道具を買い揃え、ラスベガスに飛んだ。レンタカーを借り、グランドキャニオン、モニュメントバレーを回った。

赤土の大自然が眼の前に広がった。あのジョン・フォードの西部劇の風景だ!ネイティブインディアンの人々が、兄弟に思えた。そして、その時、私の魂が叫びだした。「ここが私の故郷だ」と。

一ヶ月のアメリカの旅が終わった時、私は、アメリカに住む事を決意した。そうだ、人生の後半はアメリカで生きよう。アメリカに住むためにがむしゃらに学校へ行き、アルバイトをして働いて、そして再婚した。

2006年、ハワイ島で農園生活を始め、農園を守るために、またまたがむしゃらに働いた。世界を回る旅は未だに実現していない。大きな犬を飼うという夢を実現したら、犬が多いときで4匹にもなって、犬たちと長く分かれる遠くへの旅行にいけなくなった。

今の夢、それはこのかつてのコナコーヒー農園を、私の力で再生させ、様々な南国の果物が育つ、体験型農園にすること。生涯現役の農民を選択した。私が好きなこと、それは自然と共に生きることだから!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?