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「普通の幸せ」という罠

「幸せになりたい」と思いながら生きている人はたくさんいるだろう。ところが、「その幸せの内容とは一体なんなのか」と問われると、ちょっととまどってしまう人もまた多いような気がする。

そこで漠然とイメージされるのは、いわゆる「普通の幸せ」というものかもしれない。特に人生において苦しい局面にある時などは、この「普通の幸せ」がことのほか眩しく見えるものである。

しかし、「普通の幸せ」とは一体なんなのだろうか。これもまたよくわからない。それもそのはずで、「普通の幸せ」の「普通」も「幸せ」も、極めて主観的な概念なのである。

自分が「普通だ」と思っていることが、他人にとっては全然普通じゃなかったり、自分にとって幸せな状況が、他人にとってはむしろ不幸な状況だったりもする。だから「普通の幸せ」を客観的に定義づけすることなどできないのである。

にもかかわらず、僕たちは「普通の幸せ」という言葉を使うし、そういうものを求めていたりする。そこでの「普通の幸せ」とは、ごく一般的な感覚で言えば、結局のところ「平均的な生活」くらいのイメージになってしまうわけである。

そしてここに、大きな矛盾が発生することになる。「普通」も「幸せ」も主観的な概念でしかないのに、「普通の幸せ=平均的な生活」となったとたん、それは客観的な「他者との比較」によって決定されるものになってしまう。

たとえば、世間一般の人より自分の収入が少ないと、「普通の幸せを得られていない」と感じられてしまう。世間一般の人が結婚するくらいの年齢で自分も結婚していないと、これまた「普通の幸せを得られていない」と感じられてしまう。その項目において「平均以下であるらしい」という「情報」を見て、「自分は普通の幸せを得られていない」と判断するわけである。

だがそもそも「幸せ」とは主観的な観念なので、いくら収入があれば幸せかは人によって違うし、結婚することが幸せな人もいればそうでない人もいる。「普通の幸せが得られていない」と嘆いている時、そういう「自分の主観(気持ち)」は蚊帳の外に置かれているわけだ。

「普通の幸せ」というのは概念でしかなくて、そんなものは実在しない。だからそれは、「自分の人生とは全く関係がない」。自分の生きてきた人生の文脈から切り離されたもの。それが「普通の幸せ」という概念である。

「幸せ」というものが存在するとして、それに内容を与えるのは、自分が生きてきた人生の文脈である。父と母なしに自分の存在はなかった。この人との出会いがなければ今の自分はなかった。あの出来事があったから……。なぜあなたが今そこにいて、この文章を読んでいるのか。それを過去の文脈なしに語ることはできないし、自分の存在を意味付けしているのもまた文脈である。

「普通の幸せ」を人生の目的にすることは、人生の文脈から自らを切り離すことになりかねない。それは自らの存在の根拠を失うことを意味している。だから苦しくなる。歴史上、「普通の人生」というものが存在したことなど一度もない。そんなものは「ない」のである。

固有の文脈を持った人間が共に生きている。そこにこの世界の面白さがある。そんな中で、「普通の幸せ」なんていうものは本当に薄っぺらい概念にすぎない。もちろん、「健康で文化的な最低限度の生活」という意味での「普通の幸せ」なら、それはみんなでできるだけ保障していかなければならないけれど、他者との比較の上に築かれる「普通の幸せ」なんていうものは砂上の楼閣にすぎない。

「そんなものはない」と思って、自分らしく生きて、死ぬべき時に死んでいけばいいのである。死を前提にしない幸せもまた存在しないのだから。

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