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うしろめたさに付き合えば、世界が変わる――松村圭一郎『うしろめたさの人類学』レビュー①

(※この記事は2020/02/06に公開されたものを再編集しています。)

時間どろぼうは時間を盗んだのか

 久々に話した友達と、もう何年も思い出さなかった小説の話をした。ミヒャエル・エンデの『モモ』だ。近代化が迫るヨーロッパの古い都市あたりを舞台にしたという体裁の物語である。

『モモ』には、悲哀ある床屋のフージーが出てくる。ある雨の日、彼は灰色の気持ちで物思いにふけった。

「おれの人生はこうしてすぎていくのか。」フージー氏は考えました。「はさみと、おしゃべりと、せっけんのあわの人生だ。おれはいったい生きていてなんになった? 死んでしまえば、まるでおれなんぞもともといなかったみたいに、人にわすれられてしまうんだ」。

エンデ『モモ』6章

フージーは、客との会話を楽しんでいたし、カットや石鹸の泡立てに熟練しており、自分の仕事に自負すら持っていたが、ごくまれに、「なにもかもがつまらなく思えるとき」があった。

 そんな折、灰色の姿をした「時間どろぼう」がやってきて、彼の虚無感を代わりに言語化してしまう。「いいですか、フージーさん。あなたははさみと、おしゃべりと、せっけんのあわとに、あなたの人生を浪費しておいでだ」、と。時間どろぼうは、仕事だけでなく、趣味、恋人との時間、家事、睡眠など使い道の決まっている時間すらも、秒単位で換算して数値化してみせ、「浪費」と名指した。哀れなフージーは説得され、人生の大半を、自由に使えなかった唾棄すべき時間として捉えてしまう。

語彙の複数性――色々な捉え方があること

 もちろん、使い道の決まった時間を、自由時間を浪費するものだと捉えることは可能である。しかし、その同じ時間を、自分の能力を発揮する挑戦と喜びの時間とも、人と触れ合う時間とも、心身を休める時間とも、捉えることができたはずだ。

 どの見方が適切かを確認することがここでの目的ではない。むしろ、一つの行為や出来事に対して、様々な表現を与えることができるということをおさえておきたい。そして、そのどれかが特権的に正しいとも限らない、ということも。

 この「捉え方が色々ある」という感覚には、長い歴史がある。例えば、2500年くらい前の著作、プラトンの『パイドン』に見出すことができる。プラトンがソクラテスの口を借りて実践したように、私たちは、人の同じ行動を、別の語彙を用いれば別様に記述することができる。

 このように、「一つの事実を色々な言葉で表現することができ、そのどれかが特権的に正しいわけではない」という発想は、現代のプラグマティスト、リチャード・ローティに帰せられる形で、「語彙の複数性」と呼ばれることがある。

数字という言葉

 ローティの見方を借りれば、時間どろぼうは私たちの「精神的な豊かさ」を盗んだのではなく、むしろ、時間に関する「語彙の豊かさ」を与えてくれたと言えるかもしれない。しかし、問題は、『モモ』が示唆するように、私たちの社会が「経済の言葉」「数字という語彙」を特権視していることだ。

 スマホを通じて人とつながっているなら、スマホを通じて趣味の時間が持てるなら、それ自体問題はなさそうなのに、「現代人は週に〇〇時間、スマホを触っている」と表現された途端、嘆かわしいことだと思うかもしれない。

 よく勉強し、よく遊んでいるなら、週に相当な時間を子どもがゲームに費やそうが問題はなさそうなのに、「ゲームは一日〇時間まで」と条例で規制された途端、親は何か安心を覚えるかもしれない。

 こうした事例は枚挙にいとまがない。恋人や家族とすごす時間を数値で計算された途端、飛び上がって「浪費」だと感じてしまった床屋のフージーと、私たちの立っている場所は、ごく近いかもしれないのだ。

贈与の関係と交換の関係

 今回取り上げる、松村圭一郎『うしろめたさの人類学』も、語彙を乗り換えることで起こる認識の転換を取り扱っている。この本で頻出するのが、「贈与の関係」と「交換(売買)の関係」という捉え方なので、この論点を見てみよう。

 私たちは、この両者をきちんと区別すべきだという規則を忠実に守る社会に生きている。

たとえば、バレンタインの日にコンビニの袋に入った板チョコをレシートとともに渡されたとしたら、それがなにを意図しているのか、戸惑ってしまうだろう。でも同じチョコレートがきれいに包装されてリボンがつけられ、メッセージカードなんかが添えられていたら、たとえ中身が同じ商品でも、まったく意味が変わってしまう。ほんの表面的な「印」の違いが、歴然と差異を生む。(p.26)

 様々な儀礼や演出を付け加えることで、あなたと私の関係性は、経済活動の結果ではなく、かけがえのないものなのだと伝えようとしている。バレンタインでチョコレートを渡すという行為を、やはり経済的な語彙で説明することはできるが、それは、プレゼントの「贈与」としての側面を語り落してしまっている。

うしろめたさに付き合うこと

   バレンタインの例からわかる通り、贈与の関係と交換の関係に明確な区切りを付けたがる社会に私たちは住んでいる。

 しかし、それが贈り物か、経済的な活動かを決定的に区別することは、実は難しい。だからこそ、贈り物では、ラッピングなどが工夫され、「贈り物らしく」演出されるのだし、板チョコを溶かして型に入れて固め直し、手作り感を高めることで「商品らしさ」が抜かれるのだ。こうした演出や工夫なしに、それをプレゼントだと感じさせるのは難しい。

 では、この《区別しきれなさ》は、何を意味しているのだろうか。

 そもそも、私たちは、一つの行為や事象を、色々な語彙で捉えることができる。しかし、どの語彙も、その出来事を完璧に描写し尽くすことはできない。言葉を与えた途端に、それからはみ出す部分があるからだ。(*)

 私たちの把握を越えて漏れ出すものは、大抵、素通りされる。日常を生きる上で、ちょっとしたひっかかりに関わってはいられない。社会は忙しく進むし、「あれ?」と思ったとき、そのもやもやにいちいち向き合っていると、疲れる。エネルギーや時間の消費もばかにならない。

 いやいや、ちょっと待て。そんな思考、床屋のフージーをなぞってるみたいやん! ……そう思えたとすれば、語彙を乗り換え、認識をスイッチする準備は整っている。『うしろめたさの人類学』の「うしろめたさ」とは、私たちの日常にある「もやもや」のことであり、様々なうしろめたさを例に、堅固で不動に思える「この現実」を、別の仕方で捉えるための手がかりを、本書は提示している。


ミヒャエル・エンデ『モモ』岩波少年文庫https://www.amazon.co.jp/dp/B073PPWX7L/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_..8kEbKXHYKZG

プラトン『パイドン:魂の不死について』岩波文庫(Kindle)https://www.amazon.co.jp/dp/B07JV7SRQ8/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_g.8kEb26HTKAQ

リチャード・ローティ(1931-2007) アメリカの哲学者https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3

松村圭一郎『うしろめたさの人類学』ミシマ社https://www.amazon.co.jp/dp/4903908984/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_858kEbT18P0YD


(*)下記の本に寄稿した文章で、人間の把握をはみ出すもの(手のひらに収まらないもの)について論じている。併せて参照されたい。

戸田剛文編『今からはじめる哲学入門』京都大学出版会https://www.amazon.co.jp/dp/4814001797/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_cl9kEbJP64GTW


②に続く

2020/02/06

著者紹介

谷川 嘉浩
博士(人間・環境学)。1990年生まれ、京都市在住の哲学者。
京都大学大学院人文学連携研究員、京都市立芸術大学特任講師などを経て、現在、京都市立芸術大学デザイン科講師、近畿大学非常勤講師など。 著作に、『スマホ時代の哲学:失われた孤独をめぐる冒険』(Discover 21)、『鶴見俊輔の言葉と倫理:想像力、大衆文化、プラグマティズム』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学:ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜』(勁草書房)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)など多数。

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