授業は試合である-主体的、対話的で深い学びのために
「授業は試合である」は斎藤喜博の言葉です。
この言葉の背景には、あるエピソードがあります。
教材は「大造じいさんとがん」です。詳細は省きますが、子どもたちは「文章のなかの、あちこちの語句を引いてきたり、前後の語句の文につなげたりして反ばくして」きました。
それを受けて斎藤喜博は、「汗だくでそういう子どもたちと格闘」しました。
その結果、「この授業では、子どもたちもそうだが、子どもたちと格闘することによって、むしろ私自身が、その教材に対しての、新しい解釈を持つことができたのだった」と述べます。
今、学校では「主体的、対話的で深い学び」が求められています。私は、このエピソードに、その典型と課題を見るのです。
この子どもたちはまさに主体的です。自分たちで課題をもち、それを追究し、最後は自分たちで校長先生に試合を挑みます。
またその学びは、子どもたち同士、担任、斎藤喜博をふくめた教師との対話です。
そして「教材に対しての新しい解釈」をもちます。
しかしながら、こうした授業や学習は、どこでもできるでしょうか。
私は、たくさんの学校を訪問し、たくさんの教師に会い、話を聞いてきました。でも、校長先生に勉強試合を挑んだという話は聞いたことがありません。この子どもたちは、そういうことができるように育っているのです。
それは、いわゆる「できる子」と言われるような優秀な子どもだということではありません。
学習を、「教師から教わること」と捉えることから、「自分でつくり出していくこと、自分で解決していくこと」と捉えるように変えていくことです。いかに勉強ができる優秀な子どもであっても「教師から教わる」ことを学習だと考えていては、こうした勉強試合を挑むことはできないでしょう。
大江健三郎は、この小学校を訪問し、この子どもたちを見て、「解放された子どもたち」と表現しています。
そして、大江健三郎は、「確かに百の有名私立小学校より、ひとつの島小学校に広く一般化できる意味がある。なぜならそれはまさに、ごく一般の小学校にすぎないからである」とも述べます。ごく普通の小学校でできたことでもあります。
これからの「主体的、対話的で深い学び」を進めるにあたっては、こうした子どもの学習観に目を向ける必要があると考えています。
それができるようになるのも授業を通してですが、知識を与えるということだけでなく、このような育ちも意識できるとよいのではないでしょうか。
校長先生に勉強試合を挑むのは、さすがにハードルは高いと思いますが、少なくとも担任に挑むくらいの子どもには育ってほしいとも思います。
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