舞台「桜文」の、考察しきれなかった考察のようなもの
先週日曜日の昼公演で舞台「桜文」を見た後、
真っ先に楽しみにしていたのが、noteに上がっていたとある考察記事を読むことでした。
(この春さんという方の乃木坂評が好きで、実は毎回けっこう楽しみにしている)
舞台終わりでこの記事と、もうひとつ別の考察記事も読んだのですが、
そこで気付かされたのが、
「あれ、もしかして意外と見逃してるシーンある…?!」
ということで。
これはもう一回見たい…!でももうタイミング的に見れる日がない…!
と思っていたところ、
翌日の公演が配信されると知って、これはラッキー!と、
配信のチケットを購入したのでした。
生と配信、それぞれ見え方も若干違うので、
両方見ることで初めて気づくシーンもあり、
これは2回見てよかったなあ…!と。
(花魁としてシャキシャキとした口調をしていた桜雅が、
蔵書室で霧野と会い、小説を読んだ場面では、
優しげな雅沙子の話し方・言葉遣いに不意に戻っていたり、とか)
自分から複数回見たい!と思った舞台は、レミゼ以来だったので、
そのくらい満足度の高い作品だったのだなあ、と改めて感じます。
正直、1回目の観劇では、てっきり桜雅も霧野も、2幕終盤の身請けのシーンで命を落としたものだと思っていました。
ラストで出てくる霧野と雅沙子の服装が白装束っぽい(霧野は真っ白、雅沙子は薄ピンク)色合いだったので余計に。
ただ、1回目ではちゃんと気づけていなかったのですが、
冒頭、昭和初期で岩崎が訪ねている物書きは、
岩崎の発言からして「『花簪』を書いた霧野」であることは間違いない。
とすると、霧野は昭和初期の段階で、まだ生存しており、
かつ『花簪』が実際に執筆された世界線でもある。
加えて、考察記事を読む限り、岩崎と京子が訪ねた「盲目の代書屋」は、どうやら雅沙子(桜雅)のよう。
確かに、1幕ラストのシーン、桜雅と霧野が指切りげんまんをするシーンに、なぜか代書屋も出てくるし、
1幕で昭和初期から明治期に時代が移るシーンで、代書屋はなぜか桜雅の蔵書室にいた。
ただそうすると、2幕終盤で、桜雅が霧野に簪を突き立て、自らの眼も潰したシーンは一体どういうこと?!という疑問が浮かんだのですが、
いくら簪を胸に突き立てられたからといって、イコール霧野が命を落とすということには必ずしもならないし、
盲目になった桜雅が何らかの理由で吉原に残り、代書屋になった、ということも、辻褄が合わないわけではない。
ただ、あの装束の風合いと色合い、
そしてあれだけ悲劇的な、すれ違いの結末を迎えた二人が、
ラストシーンで、あんなにすっきりとした笑顔で向かい合っている光景が、個人的にはどうにも腑に落ちなくて。
とすると、やっぱりあの二人がいる場所は「あの世」なのか…?
とか、
そもそも明治期の部分、若き桜雅と霧野の物語全体がフィクションとして描かれているのか…?
とか、
いろいろ考えてしまいました。
もちろん創作ですから、何があったっていいわけです。
明治期と昭和初期、描かれたふたつの時間軸は、必ずしも交わっている必要はなくて、
まったくのパラレルワールドだったっていいし、どちらかがフィクションとして描かれたっていい。
明治期の悲劇を物語世界での「現実」の世界線として、前後に描かれる昭和初期の時間軸は、せめてこの悲しい物語を成仏させたいと願う、誰か(霧野自身でも、この舞台の脚本家でも、あるいは観衆自身でも)の空想だと考えても、別におかしいことはない。
むしろ、その真偽を曖昧にさせていることも、
この物語の「読み手」たる観衆に与えられた「余白」、
ひとりひとりが持ち帰って、自身の脳内で考えて楽しめる部分なのかなあ、と考えると、
この物語への愛着というか、見てよかったなあ、と思う気持ちが、より高まってきます。
ほかにも、ここには到底書ききれませんが、
物語の隅々に、考察しがいのある伏線が多様に張られていたようで、
これは何度も見れば見るほど味わいが深まる作品なのだなあ、と思うし、
改めて、この素晴らしい作品を作られた制作陣の皆様に、万雷の拍手を!と思わずにはいられません。
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