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学びは「共同作業」だし、教師は「プロデューサー」だと思う。

今日は、昨日の続きのお話を。

今日が講習の二日目だったのですが、
まあ特に一日目と変わらず、ただただ虚無でした。

ただ、昨日一日を経て、今日は「なぜこの人の話はこれほどまでにつまらないのか?」を解き明かそう、という意識で話を聞いていまして。

その過程でいくつかわかった・気づいたことがあったのですが、
まさに「学びの場」をつくる上で反面教師にすべきことのオンパレードで。今日はその気づきを深堀りして書いていきたいと思います。



まずひとつは、
前後の文脈をぶったぎると、学びがぐっと希薄になる、ということ。

今回の講師は、今回の講習の前提となる資格の有資格者ではあるものの、
実務経験はなく、また講師業も主ではないようで(本業はとある士業)。

その前提をふまえて話を聞いていると、私が終始疑問に感じていた、
なぜこれほどまでに「どこが試験に出やすいか」ばかりを強調して話すのかという点にも、合点がいったんですよね。


要するに、
この講習の前後にあるもの(前=本試験、後=実務)の文脈とのつながりが存在しないから、具体的なことをしゃべりようがないんですよね。
テキストに書いてあることは当然しゃべれても、そこに肉付けするための経験・知識が備えられてないから、そもそも話をふくらませようがない。

目の前にいる生徒が、これまで何を学んできたか、
そしてこの講習が終わった後、どんな形で実務に従事することになるのか。
そのイメージが乏しい(関心を持たない)まま、ただ「目の前の講習で何を教えるか」だけを準備してくると、こういうことになるんだろうなあ、と。

すべての学びは、前後の文脈と接続されて始めて意味を持つもの。
個別の知識単体では、役に立つものも立ちませんよね…。



そしてもうひとつ、講義を受けていて気づいたのが、
この講習、受講生がレスポンスをとる場面が本当に皆無だったんですよね。

講師がテキストを読み上げ続け、生徒は黙ってテキストに線を引く。

目の前に生徒がいるのに、反応らしい反応もまったくなく、
まるでオンライン授業のような一方的な語りばかりで講義が進んでいく。

ここまでレスポンスがない中で講義を進めなきゃいけないとなると、
講師の人がちょっと気の毒にすら思えてしまうくらいです。


どんなに教える側が用意周到にいい授業の準備をしてきたとしても、
教わる側がそれを「受け取る」準備・体勢ができてないと、
伝わるはずのものも伝わらない。
(専門用語でいうと「レディネス」(readiness)ってやつですね)

そういう意味では、学びの場とは決して教える側だけが作るものではなく、
教える側と教わる側の「共同作業」なんですよね。

学びの場をよりよいものにするために、
教わる側にも、積極的にレスポンス(頷きとか)を見せる、質問するなどの姿勢が求められるのだと思います。


ただし、
いくら「共同作業」だからといって、場をつくる責任を教える側と教わる側が同等に負担するのか、というと、必ずしもそうではなくて。
一義的には、場をつくる責任はあくまで教える側にあるのだと思います。

いくら教わる側がレディネスを高めていたとしても、
教える側がそれをシャットアウトするような姿勢、
たとえば一本調子で喋り続けたりとか、ただただ断片的な情報の教授といった姿勢に終始していては、教わる側もレスポンスのしようがないわけで。
(今日の講習はまさにそんな感じでした・・・。)

逆に、教える側が、生徒の関心をくすぐる、
既存の知識から、生徒には見えてない世界・景色を提示してあげられれば、
そこから自然と生徒とのインタラクションが生まれて、
学びの質がどんどん深まっていく。

「教師」にはそんな力があるし、
その点では、ただ知識を教授する「ティーチャー」にとどまらず、
よりよい学びの場を生み出す「プロデューサー」にもなりうる。

そんな「プロデューサー」としての力を生かすか殺すか、教わる側の能動性をいかに引き出すか、というのも、教える側の腕次第なのだと思います。

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