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パリは祝祭のように

おれはパリに焦がれている。

パリは可憐な花の都。モードの聖地。映画や本でそのイメージを体験した事はあっても、実際はほとんど何も知らない。

子供の頃に、たった一日滞在しただけなのだから。

あれは11歳の夏だった。家族旅行でパリに立ち寄ったおれは、リュクサンブール公園の木陰でまどろんでいた。頭上にはいちめんの青空。もうすぐ秋を迎える公園には花々が咲き乱れ、あたりの空気はぴりっと澄んでいた。

おれは焼きたてのクロワッサンを頰張りながら、あたりの景色をぼーっと眺めていた。生命にかがやく緑があふれていた。ファンシーなリスがいた。ユーカリの甘い匂いがふわりと漂ってきてクラクラした。

ああ、なんて優雅な世界だろう、と思って見とれていると、丘の向こうのいくつもの硝子のビルや聖堂の見事なつらなり、フランス語のシュッとした響き、文化の香り、といったパリ風情が次々と押し寄せてきて、おれはもう愉快でたまらず「将来はパリにすむぞお」と空に向かって叫んだのだったーーー


おれは今や落ちぶれて、東京郊外のうす暗い4畳間で暮らしている。主食はカップラーメン。朝、ボロボロの木戸を開けて、ベランダのみすぼらしい観葉植物を見ると「おや、リュクサンブール」と目を細めてしまうこともある。

休日になるといつも、パリを求めて東京中を彷徨い歩く。

東京にはパリ的なスポットがたくさんある。たとえば渋谷の〈VIRON〉。パリ本店の直営店だけあって、ここはいつでも本場のブランジェリーの活気が味わえる。店中にゴウゴウ立ちこめる香ばしい小麦の匂いと、エンジ色を基調とした優雅な内装。素朴なバゲット・レトロドールがお気に入りだ。

紀尾井町の〈AUX BACCHANALES〉もいい。肉魚料理からクロックムッシュまで、本場さながらの多彩なメニューが楽しめるカフェレストランだ。ネイティブのフランス語が密やかに響き、陽気なJamel Debbouzeみたいなギャルソンさんが歩きまわる店内のパリ風情にしびれる。うっすら薔薇の匂い。カジュアルなテラス席で舌平目のムニエルやボルドーワイン(夏はよく冷えたシャルドネ)を味わうのも最高だ。

そしてもちろん、新宿御苑のフランス式庭園。パリにインスパイアされた高貴な庭。プラタナス並木のそばに立つと、いつでもパリの息吹がぎゅんぎゅんに吹き抜けていくのを感じる。

クロワッサンはそこらじゅうで焼きあがっているし、神田川もサラサラきれいな鈍色でセーヌといえばセーヌだし、東京はほぼパリである。はっきり言って。

おれはブーツを軽快に打ち鳴らして、足取りかるく街を歩いていく。

一番のお気に入りは、御茶ノ水の〈アテネフランセ〉だ。アテネフランセは1913年に開校した、超有名な作家とかも通っていた伝統ある語学学校だが、ここのラウンジがパリすぎてやばい。

かっこいい建物のエントランスを突っ切って、廊下を進むと突然あらわれる空間。ラウンジはとても広くて、聖堂みたいに天井が高くて、木のテーブルがたくさん並んでいる。

ガラス窓から差し込むやわらかい光。窓の向こうの空き地にシンと茂った緑。ああ、壁いちめんの掲示板に綴られた、フランス語の羅列がどれだけまぶしく目にしみることか。いつかリュクサンブールで嗅いだ、なつかしい木の匂いまで漂ってくるーーー

パリだあああ!!

ラウンジの陽だまりの中で、焼きたてクロワッサンを食べるひと時が、おれの至高のブレイクタイム。併設されたカフェ〈La Saison des Pains〉で焼き上がるクロワッサンである。

窓際の席にすわり、オフィスビルに囲まれた庭をぼーっと眺める。

熱々のクロワッサンを頰ばると、みずみずしい小麦の香りとともに、輝かしいパリの息吹が身体中を駆けめぐっていった。


ああパリ。おれはいつだってパリを夢見て生きている。決して手の届かない夢の都。夢の?今年はボーナス出たからパリに行けるよな?本物のリュクサンブール公園でゆっくり過ごせるよな?そうだ。今すぐ爆安LCCでパリに向かって、白薔薇が咲き乱れるリュクサンブール公園をゆうゆうと闊歩すればいいのだ。最高のカフェで好きなだけくつろげばいいのだ。ユーカリの甘い匂いにむせかえり、DIORのブーツをガンガン陽気に打ち鳴らしてふふ

でも、待てよ?おれは今とってもパリ風情だ。やさしい木の匂いも、クロワッサンから滲み出す熱も。庭にはサラリと滴るような光と緑、教室からフランス語の綺麗なアクセントまで響いてくる。おれは間違いなく、記憶のパリの中心にいる。ここは本物のパリ。あるいはそれ以上のーーーこのあとボルドーワインを仕入れてはどうだろう。あのうす暗い四畳間で紙コップにワインを注ぎ込んで、星空に向かって「きゃほほい」と叫びながら祝杯を掲げれば、パリはさらに鮮やかに部屋中で吹き荒れるに違いない。本物の?本物の?


眼下に広がる庭で、たくさんの草花がひっそりと風に揺れていた。クローバー。コスモス。百日紅。ゼラニウム。睡蓮。空き地に自生する植物に近い、曖昧なグラデーションの中で、それらをはっきりと名指すことができた。

ここはビルに囲まれた庭。どこにもたどりつかず、目的もなく、ただ純粋な季節と空間だけをたたえた庭。夏も、冬も、あの日も、今も、いつでも花々の色彩だけが見事に閃いているーーーー

おれは悩ましいパリに思いを巡らせながら、ひとつため息をついた。

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