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めちゃくちゃつめたい水

世界の全てをうるおしている水がある。シンと透きとおる湿った水。

それはつめたくて鋭角で、シリコンバレーから涙の玉から睡蓮の花まで全ての中を光の3倍の速さでザンザン駆けまわっているのだが、ふつうは何百年もかけて洞窟から滴り落ちるわずかな雫を器にかき集めておろろろろろッとむせび泣きながらすすりこむ希少な水だ。

その水で満たされたコップが、おれの目の前にある。

とぷ。

ちょっとめまいがしてきた。ときおりスミレ色に脈打つ水面を、おれはバカのように放心してうっとりと眺めている。渇きはもう限界を超えている。胃がおかしなビートで鼓動しているし、喉元のうすい虹色の膜が暴れてしまいそう。そうだ。もうずっとこれだけに焦がれていたのだ。

ついに、ついに、ついに。

おれは震える手を抑えてコップを持ち、あふれる水の匂いにむせかえりながら、口元で一気に傾けるーーー


「おい聞いてるかー」

我にかえるとコトさん。短髪をつんつんさせたコトさんが、おれを睨みつけていた。

「ふぁ?あ、すみません」

「いま大事なところだから。ぼーっとしてるなよ」


おっと、いけない。ミーティング中に幻想に耽りこんでしまったようだ。

オフィスには緊張感がみなぎっている。なんと言っても今週は締め切り前だ。しっかりしないと。でも、あああ、水。水。水。今朝からずっと水のことばかり。この得体の知れない、胃袋を鷲づかみにするようなはげしい渇きはなぜ湧いてくるのだろう?

夏のささやき?いやいや、だいたいこの暑さがいけないのだ。すべて狂おしく蒸し出すような、最悪の暑さ。水も何も関係ない。太陽。楽しいですね。今日もごていねいに。お疲れです。

あるいは、水筒を忘れたから?いやいやちがう。マウントシャスタやら六甲でじゃぶじゃぶに採取した、ありきたりのミネラルウォーターを飲んだところで、このあやしいヤバイ渇きは満たせない。


「今日のスケジュール聞いてたか」

「すいませんコトさん。あつすぎて朦朧として、、大丈夫っす。おれがクライアントと交渉してくるんで」

「うす。よろしくな。じゃあ僕はUIのブラッシュアップしとくから、牛尾くんはパティシエと会食、植松さんは打ち上げ会場の手配しといてー」


11時50分。会議室には強烈な陽が照りつけて、効きのわるい旧式のエアコンによってもたらされたジトジトの空気がよどんでいる。

よっし。まず広報チームと打ち合わせだな。それから田掘さんにメールして、と。まあ楽勝楽勝っ。でも、あああ、どうしてもあの渇きが身体からせり上がってくる。

それは細胞までうるわしく染みこんだ甘さ。あるいは部活の終わりに突き抜けた爽快感。そしてやさしい手触りーーまるで世界中の良いものが全てしたたり落ちたような水だった。

ーーポカリスエットーーー

アアア!これだこれだ。ポカリでした。

朝からずっと焦がれていたもの、その正体は、清流にメープルを溶かしてさわやかな金属で灼いたみたいな甘さにみなぎり、飲むたびにしょっぱくて切なくて、涙が出るほど爽快なポカリスエットだった。

たしか会社の前に自販機があったはず。明るい灰色に青のラベルに包まれたボトルが、ザーっと見事に並んでいるのを見た覚えがあった。

そうと分かると、はやく飲みたくてもどかしかくて仕方なかったが、仕事の山が立ちはだかる。コトさんは机をコツコツして苛立っている。もういいだろクソ暑いのに、、と思っても誰も言わない。牛尾さんも、植松さんも、みんなのど渇いてたまらねえって顔で放心している。

でもランチまであと少し。走るぞ。自販機まで。

「こりゃあ夜までぶっ通しだな」うめきながら、頭をかきむしるコトさん。

その時。ランチを告げる正午のチャイムが、結晶のような響きをたてて、オフィス中にシンシン鳴りひびいた。


「ちょっとポカリ飲んできます」

打ちひしがれたコトさんを、ぐい、と押しのけて会議室を飛び出す。ステンレスの階段を革靴でガンガンと撃ち鳴らすのがじつに爽快で、おれは「きゃほほい」と絶叫しながら一気に駆けおりていった。

ーーリアルな生命の鼓動を感じるだろう?ーー

ズシャアア。勢いあまって1階フロアに崩れおちると陽光。エントランスのうす緑色の硝子をとおった光は、百万枚の絹の羽毛みたいにフロアに降り積もっていた。クスと微笑む警備員さんに手を振って、にこやかに挨拶を交わしたあと、一歩、一歩、生命をみなぎらせ、ゆっくりとエントランスドアを目指す。

巨大なドアが開いたとたん、唸りをあげて絡みついてくる重たい灼熱。光の匂い。風の匂い。おれは蜃気楼みたいに揺らいでいる夏の中に足を踏み入れた。

正午のオフィス街は歩けたものではなかった。ほんのわずかに動いただけで、熱気のかたまりが身体を圧迫し、不快な汗の粒がシャツを濡らして、脳天がぐわんぐわんする。しかし、道の向こうの自販機だけは、はっきりと目に映っていた。プラタナスの木陰でつやつやパキーンと屹立する自販機。その最上段に、ポカリのりりしい青いボトルが何本も並んでいる。おれはもう飛び上がりたいほどの陽気さで”Smells Like Teen Spirit”のメロディを歌いながら、大きく肩をそびやかして道を渡った。

轟音とともに滑り落ちてきた青いボトルをつかむと、手のひらが痛くなるほどつめたかった。すこし振ってみるとカラ、カラ、と氷のかたまりが衝突する音がする。ついに温度センサーが故障したのだろうか?あるいは朦朧としたメカニックが設定を間違えたのだろうか?

目を閉じて、身体の力を抜き、ひとつ大きく深呼吸すると、あたりがシンと静まりかえった。

ーーついに、ついにーー

おれは右手でキャップを引きちぎり、思いっきり体をのけぞらせて、うつろな喉にポカリを流しこんだ。

はじめに狂おしいまでの甘さ。そして圧倒的なつめたさ。ポカリは喉につたわり、胃につたわり、光のスピードでおれの全身を駆け巡っていった。水として。感触として。音楽として。光として。瞬間として。

路上に崩れおちてアパハァァーッと仰向けになると、空に太陽があった。街をこがす太陽。思えばこの灼熱のせいでオフィスの稼働率が落ちているのだから、コトさんが打ちひしがれているのも、仕事がうまくいかないのも何割かは太陽のせいだ。みっともない太陽。ひどく憎たらしくもあったが、このクソ暑さのせいで、ポカリのつめたさは部活帰りに飲み干した一杯よりも、寝こんだ身体に染みいる一滴よりも、何倍もあざやかに感じられたのだから、これもポカリ風情かなと思った。

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