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おれはただ呆然としている

うす甘い春の匂いがただよう午後。すべてに倦み疲れたおれは、じめじめした居酒屋の床に突っ伏していた。

とにかく仕事がつらかった。生活が苦しかった。あたりの空気は重たく澱んでおり、窓から注ぐみじめな光は無心にホルモンの油を溶かしていた。

すると突然、まるで大気圏から落ちた稲妻みたいに、一通のLINEメッセージが見舞われる。

メッセージの送り主は尾崎ヒロト。つい先日まで、ここで一緒にホルモンを爆食していた友人。今年43才になるはずの無職男である。

添付されていた一枚の写真ーーーあの冴えない尾崎が、見知らぬ優雅な庭園に寝そべり、目の覚めるような色彩の花々に囲まれている。尾崎はたっぷり射しこむ陽光のなかで不敵な笑みを浮かべ、手のひらをクイと返しておれを挑発していた。

「ルクセンブルク来いよ」

トパーズ色の綿菓子をくしゃくしゃにしたような、いかにもアホっぽいフォントで描かれたメッセージだった。はああ?ルクセンブルク?どうして尾崎がヨーロッパにいるんだよ?まったく意味が分からなかったが、尾崎が寝そべっている庭園には、まごうことなきヨーロッパ風情がみなぎっていた。咲き乱れたライラック。縦横無尽に駆け巡る白薔薇。うす紅色のコスモス。それらを照らす澄みきった光の粒にしばらく見とれてしまった。

はじめに稲妻に打たれた恍惚があり、それからじわじわと惨めさが湧き上がって来る。尾崎はきっと、おれが今でもホルモンにまみれて、うす暗い日々を経てているであろうと確信してメッセージを送って来たのだろう。そう思うとひどく悔しかった。

おれにとってヨーロッパは夢の国。幼少期をドイツで過ごし、帰国後はずっと谷底でのたうちまわっているおれには、ヨーロッパの空気も、文化も、そこにさす陽の匂いすら、すべてが光の詩のように感じられるのだ。そのまぶしい輝きをーーー尾崎!足し算すらあやしいアホの尾崎!アアア!よりによってあんな尾崎なんかに突きつけられた衝撃。グツグツと煮え返る屈辱や羨望の入り混じった何かは、やがて奇妙な活力に変わっていった。

数日後、おれはすべてを投げ出してルクセンブルクへ向かった。


ルクセンブルクの空は水晶のような青をいちめんに映し、爽快に晴れ広がっていた。空港の発着ゲートを出てターミナルフロアに降り立ったおれは、目を閉じて胸いっぱいに新鮮な空気を吸いこむ。うまかった。かなしいほどに澄みきっていた。あたたかな記憶の匂いがした。

ヨーロッパだああああ!

両手をおおきくひろげて、ターミナル中を飛びまわるおれ。硝子窓から降りそそぐ光のはたらきがあまりに鋭角で、ゲートで賑わう人々も、ずらりと立ちならんだ土産物屋も、鋼鉄のエスカレーターも、すべてが淡いプリズムに包まれているようだった。

おれはしばらく呆然と立ち尽くしていた。

それから10分ほどして、尾崎がやってくる。高級そうなグレースーツに身を包んだ尾崎は、人混みをかきわけすりぬけして、やけに勇ましい足取りでこちらへ向かって来た。

「うーす」

さんざん聞き覚えのある声、いかにも世界を舐め切った気だるい声がターミナルに響いた。

「メッセージありがとな。色々考えたけど、けっきょく仕事とか全部やめて来ちゃったわ。庭園があまりに綺麗だったものだから」

おれはついに理想郷へたどり着いたナイトの風情で、かるく声を顫わせながらそう言った。

「いやーお疲れ。で、僕は知り合いに誘われてこの国で仮想通貨系のスタートアップをやってるんだけど、大変に順調で楽しい」

尾崎はまるで無関心で、とつぜん自慢めいた話を始める。

「もはや手に負えないほど成長したんだ。うちの会社は。だから毎日ワインを浴びまくり同僚や友人たちとの日常がまぶしいウェーブとなってガンガンにさざめいていく」

飲み屋ではいつも、ヴヴー、とか、だめだー、とか歪なうめき声をあげるばかりだった尾崎。その、いかにも満たされた柔らかい声の響きに戸惑ってしまう。

でも、やっぱり会えて嬉しかった。じゃれるように軽く肩パンをかますと、尾崎はまずまず本気でおれの膝を蹴ってきた。

「あ?」

「君がいきなり殴ってくるからだろ」

「いやいや、おれは親しみをこめて肩パンしただけだから。膝を蹴るのはマナー違反だろうが?」

「それは失礼。僕としたことが」

「なんだお前、すっかり紳士になっちまったな」

ターミナルにはシンと陽光が積もり、窓の外ではきれいなストライプの国旗が心地好さそうに風にそよいでいた。


「絶対に食わせたいものがあるんだ」と言う尾崎に連れられて、ターミナルの食堂へ向かう。

中華料理屋、日本食屋、イタリア料理など各国の料理屋が並んだ食堂は広大で、とても立派だった。おれたちは伝統的なルクセンブルク料理屋に入り、窓際のテーブルについた。うやうやしく注文を取りに来たギャルソンに、尾崎はいかにも慣れた調子で料理をオーダーする。

やがて運ばれて来たのは、ひと皿の魚料理。皿の上で大ぶりの白身魚が、うまそうな油やパン粉にまみれて黄金色にきらめいていた。じゅうじゅうと音を立てるバターと、刺激的な香草の匂いがいちどにあたりへ立ち込める。

「何だいこれは?」

「舌平目のムニエルだよ。中心街にあるミシュラン星付きの名店が、ターミナルに支店を出してるんだよね。しかも、本店では味わえないスペシャリテだ。やべえよ。フランスでもイタリアでもない、ルクセンブルク料理ならではのきらめきがある。僕はパリの”Chez Georges”あるいは”L’Ecailler du Bistrot”のムニエルしか口に合わんのだが、これは大変にエレガントかつ暴力的でよろしい」

またしても得々と語る尾崎にうんざりだった。仕事まで辞めてルクセンブルクに来ているのに、ちょっと上等なムニエルをゴリ押しされたところで、まるで心が動かない。

しかし、おれはひどく腹が減っていた。

皿の上で湯気を立てるムニエルは熱く、生命に充ちているように見えた。おれはフォークを手に取り、いちど大きく振り上げたあと、ムニエルを勢いよく口に運んだ。

ーーーアアア!はじめにジューシーな白身から滲み出すうまみが口中を満たし、それから圧倒的な香りの波が押し寄せた。生きた火力のみずみずしさ!ザクザクと噛み締めるたびに小麦の粒が弾け、バターソースに溶け込んだ果実のうす甘さが湧き出してくる。それらはカルダモンの爽やかな香りと渾然一体となり、口から全身へと光のスピードで響いていった。

「うめえ」

すべてをねじ伏せるような、強烈なうまさだった。

尾崎は飢えた駄獣のように皿に突っ伏して、うまそうにムニエルをむさぼり食っている。ーーー駄獣のように?まさかと思った。高級なスーツをよく見てみると、襟や裾がところどころほつれていた。フォークの持ち方も何だか変だ。そもそもこれは舌平目ではなく鯛のムニエルであり、英語メニューにも”Sea Bream Meuniere”と記されている。

尾崎は間違いなく、今も無職である。シェアハウスを転々としているのだろうか?ビザすら怪しいのではないか?まあ、おれはすべて投げ出して来たのだから、一応聞こうと思っていた。どうしてルクセンブルクに呼んだのか。何か重大なプロジェクトでもあるのか。しかし、理由を問えばこいつは「ムニエルだよ」と即答するに違いなく、それを聞いた瞬間に終わるおれはひたすらムニエルを食べ続けるしかない。

尾崎の後ろ、大きな窓の向こうに森が見えた。まぶしい緑のグラデーション。木々が映す光の粒子。うすい葉にひらめく影。その森は、ずっと夢見たヨーロッパの輝きをたたえて、目の前に確かに広がっていた。

美しかった。

おれの手足には、いつか熱い血のほとぼりがのぼってきていた。フォークの音が結晶のような響きを立ててあたりに反響した。ターミナルの空気はますます澄みわたっていく。

おれはムニエルをむさぼりながら、ヨーロッパの光の中でただ呆然としている。

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