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0001 《薔薇と旅とわたし.》

 薔薇が好き。そんな想いから旅に出た。行き先はパリから車で1時間半ほどのジェルブロワという村。『フランスの最も美しい村』の一つに選ばれており、小さい中にその魅力がギュッと詰まった場所だ。6月の初めに開催される薔薇祭りには、世界中から毎年大勢の人が集まるらしい。

 この旅の前にわたしは仕事を辞めた。契約社員やアルバイトなどの形態で空白がありつつも7年間お世話になった出版社だった。とても恵まれた環境で働かせてもらっていた上に、必要とされていることを実感させてもらっていた。それなのに、辞めることを決めた理由は、広い世界を生きている限り味わいつくしたいと想ったからだ。美しいもので心と体をいっぱいに満たして、どのような形かでその宝石みたいなものを表現したかったから。始まりにふさわしい場所として選んだのが、”薔薇の村”ジェルブロワだった。

 早朝、パリのシャルル・ド・ゴール空港に到着する。まだ暗い中タクシーで出発した。ジェルブロワに着くと陽は昇っているものの、空は灰色で小雨が降っている。寒さのあまり急いでホテルのドアを開ける。ところが鍵がかかっていて、ノックしても誰も出て来ない。見かねたタクシーの運転手さんがドアをドンドンドンと近所にも音が響き渡るほどに強く叩いてくれた。30分ほどしてようやくオーナーの女性が中から出てきた。「私にとっては少し早い時間だったわ。」とこちらを傷つけない優しい言葉とそのあとの笑顔に救われる。到着したのが6:30というあまりにも早い時間で、24時間オープンしている都会のホテルとは事情が異なることを知らないわたしが申し訳ないことをしてしまったのだった。ありがたいことに部屋をお昼前までに準備してくださることになった。5月末にも関わらず30度近くあった東京から来たわたしの体は、雨の中ですっかり冷えていた。慌ててスーツケースからありったけの洋服を出して重ねて羽織る。うっすらと晴れ間が見えてきたので、体を温めるために少し外を歩いてみることにした。

 噂通り、村は薔薇であふれている。それも赤・ピンク・白・黄色・紫と色とりどり。水色・ティファニーブルー・白・赤・ピンクなどこれまた色あざやかなヨーロッパらしい木組みの家を飾っている。こんな楽園のような場所がわたしの住む地球にあったなんて。写真を撮りながら誰もいない静かな小道をしばらく歩き回っていると、突然強い雨がザーッと降ってきた。急いで木の下に隠れる。止む気配も、空いている店がある様子もなく、そこで雨宿りを続けるしかなかった。寒さに明るかった気持ちが段々としぼんでいく。

 どれくらいの時間がたっただろうか。50mほど先にある一軒の店に灯りがついた。淡い期待を胸に、小走りでそこへ向かう。窓から店内を覗くと店主であろう白髪のムシューと目があった。「お茶がしたい」とお願いすると快く中に入れてくれた。あー、よかった。紅茶の温かさにホッとする。店内の壁に所狭しと飾られている絵画を眺めていると、何やら芳ばしい音と甘い香りが漂ってきた。そういえばここはクレープ屋さんだった。まだムシューとの心の距離があり、クレープが食べたいということを言い出せない。そんな中で彼は黙々とクレープを焼いている。近寄って彼の姿を見ていると、「食べるかい?」というジェスチャーをしてくれた。その言葉を待っていたわたしは笑顔でうなずく。焼きたての丸いそれにお砂糖をふって、丁寧に四つ折りにする様子にうっとりとした。運ばれてきたクリーム色にちょっぴり焦げ目のついたクレープをナイフとフォークでいただく。温かさと、柔らかさと、優しい甘さが口の中に広がって、あっという間に体じゅうにも伝わった。「美味しい。しあわせ。」という言葉が思わずこぼれる。食べ終わって窓の外に目をやると、雨が止んでいる。店を出ることにした。ムシューにお礼を言い、折り紙でつくったハートの封筒に1€を入れて渡す。赤いハートを大切そうにギュッとして、ここに飾るよというジェスチャーを満面の笑みでしてくれた。その棚には、手のひらに乗るくらいの小さな人形がいくつか飾られている。それらは全て今回の旅のお供に持ってきた本の主人公『星の王子さま』だった。強い雨が降ってくれてほんとうに良かった。雨のおかげで、ムシューと彼の店とクレープに出逢えたのだ。
 外に出ると青空になっていた。濡れた道もお花も緑もキラキラと輝いている。空気もより一層澄んで、村中を歩きたい気持ちであふれてきた。ふと見上げると、空に虹がかかっている。薔薇と青空によく似合う虹だ。あの雨と寒さを思い出すと、辛い出来ごとは人や自然の優しさを感じるためにあるんだ、ということにふと気づいた。沈んだ気持ちがなければ、ムシューや宿泊先のオーナーの女性やタクシーの運転手さんの優しさも、景色の美しさもここまで心に沁みなかったと思う。これから先起こるどんなことも、それがわたしにとって必要なことだと信じることにした。わたしがたくさんの美しさと出逢うために欠かせない出来ごとなのだと。

 その後、パリにも立ち寄った。そして、一週間たたずして今はロサンゼルスにいる。到着してあまりにも驚いたのは、滞在先のアパートメントにピンク色の薔薇が咲き乱れていることだった。出迎えてくれた門の両側には淡いピンクの薔薇とそれを囲む濃いピンクのブーゲンビリアのお花。そして、中庭は薔薇のガーデンになっている。また愛おしい光景に出逢うことができた。これからも美しい瞬間をたくさん捉えていきたい。そして、目には見えない優しく、美しく、きらめく宝石のような記憶を綴っていきたい。そんな小さな夢を旅の中で抱いた。

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