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《あのね、卵.》

 たかが卵、されど卵。

 やってしまった後悔に、思わず祖母に「あのね。」と話をし、なぐさめの言葉をちょうだいしてしまいました。


 この日の晩ごはんを「親子丼」に決めたのは、スーパーでのお買い物中。新玉ねぎと、卵の入った買い物カゴに、鶏もも肉を入れた瞬間「おっ!」と心が決まったのです。


 いつもは介護ベッドで横になって、わたしが食事を作り終えるのを待ってくれている祖母。今日はめずらしく台所にくっつくダイニングテーブルで、算数のドリルをしています。

 それを横目に、さっそく鶏肉を水から煮始めるわたし。こうしてお肉を料理しておくと、余った分を他のものに使いやすいのです。そのまま鶏のスープとしても愉しめます。


 さて、その間には玉ねぎを。フライパンで炒め、しんなりとしてきたところで、30分ほど煮た鶏をほろほろくずして、その中へ。鶏にほんのり焼き色がつくまでさらに炒めます。

 続いて、卵。昆布と鰹からとったお出汁と卵三個を合わせ溶きます。ちょうどその頃、祖母は計算ドリルに飽き始め、おしゃべりを始めたところ。その相手をしながら、よそ見をし卵を一つ、二つ、三つ、と割っていたその時。


 三つ目がシンクの中へとするりと落ちていったのです。慌ててすくおうと(救おうと)するも、黄身のねっとりとした感触が指先にまとわりつくだけ。あの口の中でとろんとする大好きな黄身を手でふれたこの切なさは、これから先も忘れられそうにありません。しかも、この頃の卵は貴重品。ボウルにはなぜだか大きな殻のかけらが入っています。ほんの一瞬の出来事に、何が起きたのかもわかりませんでした。



 それでも美味しくできた親子丼を食べながらも、祖母が「おいしい」と完食してくれて嬉しいなと思いながらも、食後にお風呂に入りながらも、「あー卵を流してしまった。」とこのことだけは流すことができず。一人くよくよしていたのです。


 お風呂上がり。いつものように祖母の待つ布団にもぐりこみます。ここでは彼女の昔話にあいづちを打つことが常。ですが、今日は初めて「あのね。」とわたしから切り出したのです。

 すると、「しょうがない。しょうがない。」と朗らかに言ってくれた祖母。この彼女の言葉にずいぶんと救われました。


 けっしてわたしの失敗を叱ったり、否定したりしないことがわかっているから、ついつい彼女に聞いてもらいたくなった夜。

 この先卵はかならず正面を向いて割ろう、そして明日の朝はいつも二つ食べている卵を一つにしようと誓いながら、眠りについたのでした。


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