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災害研究者が新型コロナウィルス感染症について考えてみた(11)日本のコロナ対応と東京オリンピックに見る「権力の腐敗」とその問題点

「災害が起きる時、社会の弱い部分が露わになる。」

こうした言い方は過去から現在に至るまで数多く見られる。
極端に言えば、災害による被害は、究極的には社会の構造や特質に由来しているのであって、
「自然災害」というものは存在しないという主張もある。

これまでのコロナ禍に対する一連の政策対応だけでなく、
東京オリンピックに関わる様々な不祥事、
そして、日本を代表する大企業のスキャンダルといったものを並べて考えると、
日本社会が抱えている深刻な欠陥は「権力の腐敗」に由来するのではないかと考えるようになった。

具体的な政策対応について検討するよりも、
「なぜ適切な政策対応のあり方を巡って、透明性の高い議論ができないのか」
という問題を解決することなしには、
コロナ禍における緊急対応において必要な政策対応にとどまらず、
今後の復興や減災のステージにおいても、
必要な政策について十分に検討することなしに、時の政権が裁量的な対応を繰り返すのではないか。

1.災害における「権力の腐敗」

大災害に際して、
権力の腐敗や行政の非効率性、汚職といった問題が生じることは珍しいことではない。

例えば、2013年にフィリピンで発生した台風「ハイアン」においては、
平時から問題視されてきた行政の非効率性が、地元自治体の復興の足を引っ張った。
被災自治体に対する中央政府からの復興資金の手当が遅れに遅れ、
1年半が経過しても当初予算が降りてこないということもあったそうだ。
また、非公式ながら、多くの公的資金が中央政府から地方自治体に手当される過程で「中抜き」されたという証言もある。
他の大災害に置いても、2011年にタイを襲った大洪水では、被災者支援センターに集荷された緊急援助物資が、
配られないままに放置されていたことがあった。
さらに、復興支援という大義名分あったにせよ、被災した農家に向けて、米を担保にした融資制度を通じて事実上の補助金を配ったことも、
支持者に対する露骨な利益誘導だと批判された。

上で挙げた事象の一つ一つは、緊急支援や復興の現場において問題となる行為ではあるものの、
こうした問題が生じたからといって、被災地の復興や被災者の生活再建が直ちに頓挫するというほどの影響はない。

むしろ、
「こうした行政上の非効率性や汚職を修正することができない構造」が存在することが、
災害復興においては問題となる。

例えば、
阪神・淡路大震災の時には、
被災地から、財政的には復興予算に国から寛大な措置を受けたものの、
地域的な規制緩和も含めた特別扱いを求めた際には、これは許されなかった。
(エンタープライズゾーン構想がその典型と言える。)
その理由としては、特別扱いを許すのであれば、兵庫県よりも沖縄県が先であるという、
「相場観」が時の政権与党の中にあったからだと言われている。

勿論、
被災地の要望が全て通ることが正しいと言うわけではない。
しかし、被災地の要望に応えないというのであれば、
「なぜ、阪神・淡路大震災の被害を見た上で、「沖縄県が兵庫県よりも特別扱いの上では先にあるべき」と言い切れるのか。」
説明の必要があっただろう。
震災を機に、被災地の経済発展が進むことは、近隣地域にとっての脅威となることが懸念されたことから、
「焼け太りは許されない」という声もあったようだが、(そして今でも様々な被災地に対する焼け太り批判は尽きないのだが)
被災地や被災者は太るために自ら焼かれたわけではない。
テーブルの下で足を蹴るくらいならば、堂々と批判するべきだったのではないか。

こうした一つ一つの政策対応について、透明性を確保した議論がなされていたのであれば、
議論の結果に賛成するかは別にしても、
十分に吟味された上での政策判断であったことへの納得感は確保できたであろうし、
その議論の過程で、より良い政策対応が見つかったかもしれない。
被災地や被災者からしても、
「自分たちが必死で訴えた声に対する返事が返ってこない」
という無力感に苛まれることもなかったかもしれない。

「権力の腐敗」とは、
政治家や官僚個人の汚職というよりも、
特定の政策対応を裁量的に実施する理由について説明しない、
あるいは、求められる政策対応を実施しないことについて十分に説明や議論を行わない、
といった状態を修正することができないことを言うのではないか。

2.日本のコロナ対応における「権力の腐敗」

翻って、
日本のこれまでのコロナ対応を見てみると、
こうした「権力の腐敗」を想起させる事象が多く見られている。

例えば、
飲食店における営業や酒の提供については事細かに厳しい条件が付けられるものの、
最大の感染源となっている家庭内感染や高齢者向け施設において、箸の上げ下げまで指示するような措置は取られていないように見える。
また、主たる感染対策としてテレワークの推進を掲げる一方で、電車通勤における感染リスクについては、ほとんど指摘されていない。
他にも、識者によっては国民に対してPCR検査を拡大しないことや、一定割合で抗原検査を用いることについても、既得権益を確保しているグループに問題があると指摘する者もいる。
さらに、正規雇用者向けの雇用調整助成金、中小企業事業者に対する持続化給付金や家賃支援金といった措置が見られる一方で、
非正規雇用やフリーランスの労働者に対する支援は極めて乏しいか、あっても貸与が主となっている。
菅総理自身が官房長官の頃から固執していた「Go to キャンペーン」も、人流が減って顧客減に苦しむ小売店やコロナ禍で困窮する学生への支援等を見れば、特定産業への露骨な利益誘導であると指摘されても否定はできないだろう。

端的に言えば、
支援が手薄である者、また厳しい措置を要請される者は、
総じて、政治権力との確かなつながりを有していないように見える。

そして、そうした「政治権力との確かな繋がりを持たない者」に対して、
なぜ支援が手薄なのか、どうして他のグループを優先した対応を行うのか、政府はほとんど説明していない。
そして、そうした状態を我々は改善することができないまま今日に至っている。

3.東京オリンピックにまつわる「権力の腐敗」

こうした「権力の腐敗」には、既視感がある。

東京オリンピック組織委員会における森元総理の女性差別発言とその後の密室後任人事、
オリンピック開会式の演出家の人事を巡る一連の騒動、
オリンピック開催に伴う感染増の可能性に対する政府の説明責任の欠如、等。

露骨に肩入れされるグループが存在する一方で、
透明性や説明を求める声に対しては、ほとんど何の情報提供も行わない点で、
これまでの政府や組織委員会の対応は一貫してきた。

それは、透明性や説明を求める声が政治権力との繋がりを有していないからであり、
そうした繋がりを有しているグループには、説明不要で様々な便宜が図られてきている。
そして、その状態を改善することができないまま、東京オリンピックは閉会した。
組織委員会の事務方のトップは、大会が成功裏に終わり実施の意義があった点を自ら強調しつつ総括している。


4.「権力の腐敗」が生み出したもの

一時、「強いリーダーシップ」こそが、
スピード感のある改革に必要であるという議論が支持される時代があった。

こうした「強いリーダーシップ」とは、
「多くの人の共感を背景に、必要な政策を優先順位に沿って進める」という意味ではなく、むしろ、
「例え、抵抗する勢力があったとしても、それを打破できる権力を背景に裁量的に特定の政策を強引に進める」ということを意味していた。

これは「強い権力」なしには不可能なことであった。

しかし、
そうした、「説明を要しない権力の確立」は、
「権力の腐敗」を生んだだけでなく、日本社会の潜在力を貶めたのではないか。

東京オリンピックの開会式と閉会式は、その象徴であったように思えてならない。

ゲームやアニメの人気作で使われた音楽、
芸術家や伝統芸能によるパフォーマンス、
日本の伝統的な祭りの風景や盆踊り、そしてコミカルな演劇調の演出まで、
個々に見れば、それぞれに質の高いコンテンツが含まれていたのかもしれない。

しかし、
全体として、この開会式や閉会式にどのようなメッセージを託したかったのか、あまりに不明瞭であったように思う。
そして、そうした全体の調和が失われたことで、個々の演出の表現力が低下した上に、
日本は世界に対して何のオピニオンも持たない国であることを明確に発信してしまったように思う。

「権力の腐敗」によって一部の既得権益者によって組織の構造や人事が振り回された結果、
開会式や閉会式に統一的でクリアなメッセージを持たせることが不可能になったと考えるのは、
見方として穿ち過ぎだろうか。

コロナ禍で混乱する世界において、今後も先進国であろうとする日本がこういう振る舞いをすることは、
自国の未来だけでなく、世界からの期待に対しても大きな禍根を残したように思う。

5.「復興五輪」だったならば

「オリンピックなど所詮は運動会なのだから、そうしたメッセージ性など不要ではないか。」

こういう意見もあるかもしれない。
だが、2020東京オリンピックに限っては、こうした批判は適当ではなかったように思う。
それは2011年の東日本大震災から10年が経った時に開催されるオリンピックであったからだ。


仮に「復興五輪」をテーマとした開会式やスピーチを行うのであれば、
政府は「復興した日本」を世界にアピールしたかもしれない。
しかし、コロナ禍の今、むしろ日本が訴えるべきだったことは、
「いかに復興を目指して苦難に直面してきたか、包み隠さず示すこと」
であったように思う。

大規模な津波、原子力発電所の事故、多くの被災者の避難生活や生活再建における苦難、
そして、困難な状況にある多くの被災地での復興の努力。
現在進行形で語られる数多くの失敗や犠牲の上に成り立つ、今日の日本社会。

こうしたものを、客観的な視点で包み隠さず示すことで、被災地は当然として、
日本社会全体が困難な問題と向き合ってきた10年間の先に、オリンピックを迎えるに至ったことが示すことができたならば、
世界中が明けないコロナ禍の中にあって、勇気あるメッセージを出すことができただろう。
そして、そうした歴史的な大会に参加することに、奮い立たない選手は少なかったのではないか。
大会における選手のプレーの質向上にも寄与しただろう。

結果的に、復興五輪というテーマ性はほとんど失われ、
世界の人に対して日本の復興がどのようなものであるのかアピールする機会は永遠に失われてしまった。
これも、時の政権が「復興五輪」というテーマをなぜ持ち出したのか、
十分にその検討過程が公開されることなく、場当たり的な決定を許したからではないのだろうか。

6.東京オリンピック後の社会に向けて

東日本大震災後の日本社会は、
経済的な停滞を打破することができなかっただけでなく、
制度や社会通念のアップデートに成功するどころか、
守旧的な懐古主義に身を委ねることにあまりに長い時間を費やしすぎた。
結果として、質の高い政策対応について十分に議論し、吟味する機会を逸し続けてきたことで、
日本社会は世界や現実社会の変化に適応できず、徒に問題を悪化させ続けることを繰り返してきた。
そうしたことへの懸念や疑義を呈する声は、「権力の腐敗」もあって、その批判が可視化されない状況が現在も続いている。

コロナ禍の中で進められてきた様々なコロナ対応においても、
同様のことが言えるのではないか。

こうした社会の現状を改善するためには、具体的な政策提言よりも、
その前提として、「権力の腐敗」を解消するような具体的な対策が必要だろう。

どのような対策が有効であるか、残念ながら、筆者はまだその答えを持ち得ない。
しかし、長く存続する組織、派閥、企業において「権力の腐敗」が生じるならば、
社会の隅々に新しい風を導入するか、既得権への監視や透明化を徹底させる強制力をいかに担保するかが、
焦点になるように思う。

東京オリンピック後の日本社会は、そこから始めなければいけないのではないか。

なお、
政府の分科会においては「強制力を持つロックダウン」を実施することができるよう、
法制度の改革が急がれるという声もあるようだが、
「権力の腐敗」を前提とするならば、
そうした強い権限を政府に持たせることは、市民が意図しない方向に過大な負荷をもたらすだけになるのではないか。



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