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夏休みの日記 ~母と『聖なる鹿殺し』鑑賞~


なつやすみ、おかあさんといっしょに、えいがをみました



私の母は結構映画が好きな方だと思う。
あまり映画館などには足を運ばないものの、空いた時間があれば「金曜ロードショー」とか「ムービーチャンネル」とか、そういうテレビ放送される映画を番組表から探してきてはちょくちょく観ている。「こういう気になる新作があるから観に行こう」という能動的な映画好きではないが、「暇だなあ。じゃあ映画でも観るか」という受動的な映画好きなのだろう。
私も実家で暮らしていたときは、そんな母に付き合って一緒に結構な数の映画を観ていた。なんとなく「オタク趣味」を持っている私のほうが母親よりも映画好きであると無根拠に思いこんでいたのだが、一人暮らしをし始めて映画を観る機会が一気に減ったことで、実はそうでもなかったことに気付いたりもした。


そんなわけで。今年のお盆休みに実家に帰省した際にも、やはりその間にいくつかの映画を観ることとなった。今年のお盆のラインナップはサスペンスものが多い傾向だったが、その中の一本に『聖なる鹿殺し』があった。

みたえいがは「せいなる しかごろし」です


『聖なる鹿殺し』は2017年にギリシア出身のヨルゴス・ランティモス監督が制作したサイコホラー・サスペンスで、カンヌでは脚本賞も受賞している。
医者として確固たる地位を築き、同じく医者である美しい妻、よく出来た二人の子供と郊外の豪邸で暮らす、誰の目から見ても成功した人生を送る主人公。しかし、ある「出来事」をきっかけに知り合った青年と家族ぐるみの交流を続けるうちに、彼からその「出来事」を精算するための「選択」を突きつけられる、という物語である。

https://www.youtube.com/watch?v=KIbzpjS4GaQ

また、以前私がnoteでレビューしたマーベル作品『エターナルズ』に登場する他人の心を操るヒーロー・ドルイグ役のバリー・コーガンが、この作品中で最も重要な役割を担う謎の青年マーティンを演じている。『エターナルズ』においても彼の一歩線を引いた距離感と緊張感を保った独特な演技は、私の中で強く印象に残っており、今回の『聖なる鹿殺し』で登場してすぐに彼だと気付いた。これは普段人の顔を覚えるのが不得意な私としては、結構珍しいことであるのだ。

「せいなる しかごろし」はちょっとこわいえいがでした


さて、今回私がこの『聖なる鹿殺し』を観て興味深く感じたのは、作品の内容ももちろんそうなのだが、一緒にこれを観た母親と私の、感想の違いだった。端的にいうと私は結構この映画に共感できたし、母親はあまりそうではないようだった。
前述の通り母親はかなりの数の映画を鑑賞しており、私も人並み程度には映画は観ているのだが、親子ながら作品への接し方は結構違うなと常々ながら感じていた。具体的に言えば、母親の方が作品に対して批判的な態度を恐れないし、私の方が比較的擁護的だ。母親は物語に一定の理路があることを望むが、私はカオスな物語が結構好きである。
今回の『聖なる鹿殺し』は私達ふたりのそういう違いが顕著に出た作品だと思う。

この『聖なる鹿殺し』では、ある現象が登場する。それは映画の予告編でも触れられているように、主人公の子どもたち二人が突然何の前触れもなく突然歩けなくなってしまうのである。主人公が勤める大病院で検査しても、数値上は間違いなく健康であるはずなのに原因は全くわからない。主人公の満たされた生活の中に訪れる突然の理不尽。
この現象について、どういう理由で発生したのか作中では一切説明されていない。いや、正確にいえば作中でも「原因」は明示されているが、現代社会を舞台とする世界観から言えばあまりにも突拍子もなく、簡単には信じられないものである。作中の登場人物も、それが明かされても最初は戸惑うばかりであった。

ここからネタバレになってしまうが、その「原因」とは青年マーティンのことである。だが、マーティンが何か裏でトリックを使ったとか、あるいは黒魔術で呪ったとか、そういう訳では無い。ただただ、マーティンが「そうあるべき」と考えたから、その悲劇が起こったのである。いや、この説明も正確ではないと思う。地球が「リンゴは落ちるべき」と考えたからリンゴが落ちるわけではないのと同じように、その理不尽な悲劇はマーティンの意思とも関係なく当然の結果として起こったかのようだった。
しかし、それでも、それはマーティンがいたから起こったことだけは、作品内ではっきりと明示されていた。

わたしはおもしろかったけど、おかあさんはつまらなかったみたいです



この描写については中々説明しづらい部分なので、いまいちピンとこない方はぜひ作品を観ていただきたいと思う。ただ、上記の説明でピンとこない人はもしかしたら作品を観てもやはり同様にピンとこないかもしれない。他の方のレビューを見ても「意味がよくわからない」という内容のものが多かったりする。
この「ピンとくる」「ピンとこない」の違いが生まれるのは、いわゆる「映画的素養」といって能力の有無というよりも、これまでの人生の中でどういう人生観の基盤を作ってきたかで変わってくるんじゃないかという気がする。実際、私より圧倒的に映画の本数を見ている母もやはりピンときていなかったようだった。

自分にとっては結構明確な事実なのだけど、周囲の人にとっては全然理解されないということはままある。私の場合、母を含め私の家族とはこういう部分では実に世界観が合わないことが多かった。子供の頃はそれに孤立感を覚えていたし、もう少し歳を取るとには違う世界観に生きる家族を馬鹿にしていた。今ではそういうこともないけども、やはり他の家族と私はどこか立ってる場所が違うなという感覚は未だに持っている。こういう映画を見た後の感想が違う場合なんかには、それを特に感じる。


例えば私は幽霊とか呪いとか、そういった「オカルト」的な要素は結構信じている人間だ。もちろん表立って言うと引かれてしまうことはわかっているのでなるべく口にしない程度の社会性は持っているが、これはもう肌感覚なのでしょうが無い。とはいえ一緒に暮らす家族にはそういった要素は隠しようもない。幸い母親からは強く否定はされなかったものの、少し「変わり者」扱いされていたなと言う感覚は強く持っている。

『聖なる鹿殺し』は、とある理不尽な状況に対し、何も理屈も根拠もない予言をする教主が現れ、それを信じてしまい絶望的な選択をする家族の物語である。この映画に登場するマーティンや家族たちが、正しいか正しくないか、それは私にはわからない。ただ、こういう行動をしてしまう彼らの気持ちは私には何となく理解できるし、それを理解できない母に「そりゃそうだよな」と思う気持ちはありつつ、どこか寂しい気持ちを抱いてしまう部分は少なからずある。

ちょっとざんねんだけど、またいっしょにえいがをみたいです



社会的には突拍子もないことや、受け入れがたいようなことを、日常として暮らしている人間は多くいるし、普通に暮らしている。『聖なる鹿殺し』は恐らく社会的にはかなり「気持ち悪い」物語だとは思うけども、そういう「気持ち悪さ」を抱えずにはいられない人間も、まあまあいるんだよなあという気持ちで私はこの映画を観ていた。

母にはこの感想はあまり「ピンとこない」だろうけど、まあそれはしょうがない。それでも夏休みに一緒に同じ映画を観れるし、一緒にちょっとお高いかき氷も食べに行く。お互いのそういう「気持ち悪さ」に耐えきれず攻撃し合う人も多い中で、私達親子はそういうことができる関係に落ち着いて、まあ良かったなと思う。

次は年末年始に実家に帰るので、そのときにまた何かしらの映画を観るだろう。

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