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エターナルズ批評  ~メインストリームを離れた、流浪者的英雄像~

現在公開中のMCU最新作『エターナルズ』の評価は賛否両論!?超人的で、多様的で、個人主義。これまでのアメコミヒーロー達の文脈から離れた流浪者的英雄達は、マーベルファンたちに受け入れられるのか。

※ネタバレ注意

『エターナルズ』(原題: Eternals)は、「マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)」の最新作であり、捕食者「ディヴィアンツ」から人類を守るために、人類から見れば神にも匹敵する存在「セレスティアルズ」が送り出した10人のヒーローチーム「エターナルズ」の戦いを描いている。MCUは現在世界で最も人気のある映画シリーズであり、その作品数はこの『エターナルズ』で26を数えるまでに至ったが、しかしながらその中でも本作は最も賛否が分かれる作品となってしまうかもしれない。


■本作の評価は賛否両論。「エターナルズ」は駄作?

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映画、ゲーム、テレビ番組、音楽アルバムにおけるレビューを収集しそれらを数値化するサイト「Metacritic」において、現時点での『エターナルズ』の評価は100点満点中69点となっている。全MUC作品の中で60点代の評価に留まった作品は、ごくMCU最初期の作品である「インクレディブル・ハルク」の67点を除けば、この『エターナルズ』のみとなる。


これを書いている時点(2021/11/11)で、『エターナルズ』は公開からようやく一週間を超えたばかりであり、もちろんこれからどんどん評価が変わっていく可能性は十分あるだろう。しかしながらこの点数は、現時点では『エターナルズ』がマーベルファンの多くを熱狂させられなかった結果である、という言及は避けられまい。

では果たして『エターナルズ』がとんでもない駄作であったのだろうか。そう問われたら、私はそれに「NO」と答える。確かに『エターナルズ』はこれまでのMCUが築いてきた大きな文脈からは外れた異質な作品であると言える。しかしその異質さこそが、MCUの今後の方向性を大きく変える重要な転換点になりうるであると私は感じている。


■本作の監督は初の非白人アカデミー監督賞受賞者

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本作の監督・脚本は2021年に「ノマドランド」で初の非白人アカデミー監督賞受賞者となったクロエ・ジャオさんである。「ノマドランド」は、2008年の世界的経済危機を背景に、家も職も失った主人公が唯一手元に残った古いヴァンに乗ってアメリカ各地を流浪し、「ノマド≒遊牧民」としての新しい自分の生き方を見つけていく過程を描いた作品である。資本主義という現代世界のメインストリームから外れた生き方を、楽観的に絶賛することはなくとも、優しく寄り添うような視点で肯定している。このメインストリームから外れた者たちのあり方を肯定する視点は、この『エターナルズ』でも随所に感じられた。


■MCU史上、最も多様的なヒーロー達

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例えば真っ先に目につくのは「エターナルズ」のメンバー構成であろう。10名のメンバーのうちの半数以上が非白人男性であり、これまで多様性を謳いつつ主役の殆どが白人男性で占められていたMCUのメインストリームからは些か離れた構成であると言える。特に劇中で男性同士のキスシーンを見せたファストス、聴覚障害を持ち周囲と手話でやり取りをするマッカリといったメンバーは、MCUの全キャラクターと比較しても他に例がない存在である。

こういった構成は現在のエンターテイメント業界が多様性を重んじるというメタ的な背景が影響していることも想像に難くない。しかし、エターナルズは神に匹敵する存在が人類のありとあらゆるモデルケースの中からアトランダムに抽出して選んだチームであると示唆する場面があるため、多様的であることに設定上の説得力があり、そういったメタ的な製作者の意図が物語のノイズになりにくくされている。こういった世界観を利用して、制作上の課題をクリアするやり方は、個人的にとても好きである。


■人類から距離を置く超人たち

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更に「エターナルズ」という超人的な存在自体が、人類という地球上のメインストリームから離れた流浪者的存在であるということも劇中で明示されている。一旦ディヴィアンツという敵対存在を殲滅し、自分たちがこれ以上人間に関わることはできないことを自覚したエターナルズは、それから各々の信条に従って行動し始める。イギリスで教鞭を取るセルシ、ポリウッドスターとなるキンゴ以外のメンバーは人類とは殆ど関わることがないクローズドな環境に身を置く。


人類と距離を置くエターナルズは、あるものは人類に愛想をつかせた厭世的な立場から、あるものは人類の自立を目指す保護的な立場から、あるものは一人で引き篭もるのが好きという個人的な立場からと様々であるが、そのいずれも自らの信条に従っていて、何にも束縛されていないという自由さがある。誰かに命令されることなく、他人のしがらみにとらわれることなく、人間の建築物などがない大自然の中で暮らす彼らの姿は、「ノマドランド」で荒野にヴァンを停めその中で自分の力のみを頼りに生きていく「流浪者」たちと重なる。



■何にも縛られぬ個人集団

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そういったエターナルズの流浪者的な自由の精神は、人類が滅亡の危機に瀕しても現れている。サノスの「指パッチン」においては、ディヴィアンツによる危機ではないとしてエターナルズは立ち上がる姿勢を見せなかったし(これについては、既に地球人に溶け込んでいたメンバーが無反応だったことに、個人的にはやや違和感を覚えている)、劇中でセレスティアル・ティアマットが出現する際にも、チームで一丸となり行動することはしない。結果的に互いに協力することはあっても、それはいわば利害関係の一致でしかなく、彼らが何かのルールに縛られたことは、最終的に生みの親であるアリシェムからも離反したことも顧みれば、一度もないと言えるだろう。

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唯一アリシェムの命令に従うという、いわば保守的な立場を選んだイカリスは金髪の白人男性として描かれており、エターナルズの中で最も既存のMCUのヒーロー像に近い存在である。そんな彼がかつての仲間と対立し打ち倒されて、最期に自ら太陽に焼かれ消える選択を取ったのはとても皮肉に思える。


■流浪者的英雄は何処へ向かうのか

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彼らの流浪者的精神の源流は、仮に人類には滅んだとしても根本的に自身には何も影響を及ぼさないというエターナルズの特異的な立ち位置にあると私は思う。世界から何も影響を受けず、ひとりでも生きていく力を持つ彼らは、だからこそ何からも自由であり続けることができる。そんな彼らが選ぶ選択は、ときに人類から見れば酷に映ることもあり、だからこそこれまで人類に寄り添い続けた他のMCUのヒーローたちと比較して異質にも見えてしまう。あるいはそれが、MCUファンからの『エターナルズ』への評価がいまいち芳しくない原因になっているのかもしれない。心のどこかでイカリス的なヒーローを求めるMCUファンは、決して少なくはないのだろう。


物語の中で、結果的にエターナルズの行動によって人類は救われているが、しかし彼らの選択次第では、人類はセレスティアル・ティアマットの養分になっていた。力のないものは、力のあるものに喰われてしまう。それは、この現代の状況下で、常に厳しい局面に立たされる私達自身にそのまま通ずる部分があるだろう。


今回『エターナルズ』が打ち出した「流浪者的な英雄像」は、そんな私達に向けられた一つの解答なのかもしれない。流浪者的に生きたエターナルズは、それぞれ選んだ道は異なっていても、彼ら自身の人生を生き、そこに誇りを見出していたように私には見えた。もしかしたら『エターナルズ』は「世界から本当に自由になるためには、自らが流浪者的な英雄になるしかない」という、厳しくもシンプルな現実を映し出したのではないだろうか。
こんな英雄像がこれからのMCUにおいてどの様に受け止められていくのか、私は楽しみに思っている。メインストリームから離れた英雄は、そのまま朽ち果てていくのか、それとも孤高の存在となっていくのだろうか、はたまた次代のメインストリームになっていくのか、今後のMCUの展開に私は期待したい。

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