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遠くにある戦争、ここにある演劇

「人間の集団性を最大限にしたものが、戦争と演劇。戦争は相手を降参させることを目的に人を強制する。演劇は合理性を求めず人を強制せずに、集団でものをうみだすものだ」


4月から演劇に没頭し充実した日々を過ごしています。自分に必要だと思える学びを得る日々は余るほどの幸せで、満足してしまいそうになる程です。環境を支えてくださる皆さんやこれまでの道中でお世話になった皆さんへ、改めて感謝したいと思います。一方で

幸せの裏には不幸がある。と感じています。
自分ごとで言えば、記者時代の3年間は大いに幸せではあったのだけど、確かに苦しい時期でもあった。
やはり人生には浮き沈みがあって、幸と不幸は繰り返すようにできているかもしれない。
5月は五月病に、6月は梅雨に、7月には暑さにと、一向に上がり続けない気分もあって。それでもふとした日常の幸せが気分を晴れやかにして、数日間の好調を与えてくれる。

自分の幸せの裏には他人の不幸せも
きっとある。そして、その逆もまた。
悲しいが、そんな表裏もあると忘れてはならない。
私のいる幸せな時間の裏には、誰かの不幸がある。
因果関係どうこうでなく、時折そんな事が頭をよぎったりする。
それはニュースで報じられる事件事故の当事者や
遠い国で戦禍や災害など様々な苦難にいる人かもしれない。或いはSNSなどの情報に苦しむ人かもしれないし、時と場所をともにする友人かもしれない。
自分を満たす幸せが、誰かの存在に気を配る妨げとなっているのなら、嫌な事だと思う。
だがやはり、私生活の充実によって、不満へ目を向ける機会はいくらか減っている。

ここまで書いて、全く偽善的なやつだと思われたなら、その通りであり、私もそう思う。
ただ、偽善にでも良く生きていたいと思うし、そう生きていくことが自分には良いのだと思う。
だから、いつも通りにこのままを続けます。
(なんかこれもいつもやってる気がする)

話を戻せば、この4ヶ月間をぼくは幸せに過ごした。その分、社会や他人、自分の中の不満に目を向けることが減った。考えると、記者は社会や他者に目を向け続ける仕事なのだから、当たり前のことだ。
だからこそ辛い面もあった。もっとやりたかったことや果たすべきことは確かにあった。
ぼくにはやり残したことがある。演劇で果たすため、しっかりと前進はしているんだと思う。

冒頭の言葉は、現在通う座・高円寺という劇場の前芸術監督であり、通う演劇学校の創設者である佐藤信さんが芸術監督の退任と、今期の最終講義の節に語った言葉だ。※完全に覚えている訳ではないので、誤りがあるかもしれません。ご了承ください。

気が付けば、ウクライナ情勢は1年半も続くという。ふと、私たちの生活にも日常化していることに気づき、そのことへの恐ろしさに気付かされる。あれほどの衝撃を与え、日々の動向を切に見守った状況は、一向に改善がされないまま、トップニュースの位置から転じ、私たちの興味関心からも薄れつつある。
終戦の日に際して、今年も改めて戦争を思う時季にある。当時の人たちも、いつからか戦争が日常となったのだろうと想像する。それでも死を隣り合わせにする空襲は日常とはなり得なかったかもしれない。ただ空襲や死でさえも、何回も何年も繰り返す中で、歯止めが効かなくなるものだろう。
それはもしかすると、私たちが経験したコロナ禍の日常化に近い部分があったのかもしれない。
張り詰めた緊張を続けることがいかに苦しいことか。もたらされる非日常は時に人を狂わせ、悪い幻想を見させてしまう。私たちは実体験から学んだはずなのである。
戦争の足音は確実に近づいてきている。
繰り返される空襲が日常となり、戦地へ繰り出す兵士が日常となり、死が日常へとなっていく。
その段階までにも、着実に戦争は日常へとなり続けている。
遠くで起きている戦争の日常化は、いつしかの自らの戦争の日常化へつながっている。
そんな危機感を持たなければいけない。

AIには一層の危機感を感じている。
ぼくたちが知り得ない範囲で、大きく世界が変えられるかもしれない。
本当に怖いことだと思う。実際にこれまでも世界は、知りえない所で変わり続け、生活を変えてきた。
それはどうしようもないことなのかもしれない。もはや選挙権や基本的人権などぼくらが持ちうる権利では、対抗しきれないのかもしれない。
それほどに科学は肥大化してしまった。もう科学は人類を滅亡させることも地球を破壊することも、何ら不可能でない程に発展している。実際に押せば、全てを変えてしまうほどの危険なスイッチは実在し、誰かの意思決定でスイッチが押されれば、何もかもが変わってしまう世界なのだ。
その権力に怯えながら、顔色を伺い続けなければならない。もはや良心を信じ続けるしかないのかもしれないとも思う。ただAIにきっと良心は通じない。そんなところまで人類はきてしまっているのだろう。
何か、悲観的なディストピア論になってしまった。
ただ、

世界は着実に良くない方へ向かっていると思わざるを得ない。

話を戻す。
こんな世界を唯一、改善させられるものがあるとすれば、人間の想像力だろうと思う。
AIも科学も化学兵器もまた、人類の想像力によって作られた。
ただ、私たちに本当に必要な想像力とは、隣人を思いやる想像力だ。

街を行き交う人は、何を思い考えているだろうか
ニュースで報じられた犯人と被害者は、何を思い考えているだろうか
SNSで心ない言葉を投稿する人は、何を思い考えているだろうか
私が傷つけてしまったかもしれない相手は、何を思い考えているだろうか。

きっと、そんな想像力を働かせることでしか、人間は良くは生きられない。

そしてきっとぼくは、演劇にはそんな想像力を人間に働かせる機能があるのだと考えている。

4月からの振り返りを書こうと思って書き出したが、
例に漏れず話が逸れてしまった。だが確かにこれが、今の自分の振り返りであり、現在地の表明である。
そしてやたら大口を叩いている。大口と自分で言うのも危うい程に、色んな意味で危うい。
だが、自分のためにも書いたほうがいい。
のでもう少し書ききります。
急に話題は飛びますが、

今は4年ぶりに手にした正真正銘、正式な夏休みです。
楽しんでいたいが、もちろん楽しむだけで終わらせてはいけない。

真の問題は「自分に何ができるか」ということです。
これから着実に前進していきたい。なるたけの学びを得ながら、自分の創作、表現に結びつけていく。
具体的に演劇作品と劇団をつくる過程を進めていく。
まずは脚本を書いていくこと。
何だか自分はまるで、動機ばかりを集めているなと思える時がある。色んな人のためにも、やり切るところまでやり切らないととか思っているけれど
結局やるのは自分のためだし、やり切るのは自分でしかない。

冒頭の言葉。
ぼくはこの言葉を聞いて「選んだ道は間違いでなかった」と思えたのでした。
そして、この信念を信じ続けたいし、信じ続けなければならない。

皆さんには、どんな風に社会世界が見えていますか?読んでくださって、ありがとうございます。

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