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あいまいの中に、本音を探す


4月24日。雨音を聞きながら、本を読んで、文章を書いた。久しぶりに書いたnoteは、今の自分の文章論のようなところに辿り着いた。なぜ書くことが減ったのか、なぜ改めて少し書いてみようと思ったのか。そんなことを書いたので、気が向いたら読んでみて。書く豊かさを、失ってはいけない。


久しぶりの更新
この前、久しぶりにnoteを更新した。先週、東京へ観にいったロロの「ロマンティックコメディ」という劇のレビュー、感想のようなものなのだが、書くのに1週間ほどかかってしまった。
久しぶりに文章を書くことは、想像以上に労力を要した。それでも劇の記憶をたどって振り返りながら、自分なりの解釈や考えを、少しずつ言語化して書く時間は、楽しいと言えるものではないが、豊かな時間だった。

こんな思いで文章を書くのは、1年ぶりぐらいだったかもしれない。新聞記者という職について早2年の時が経った。取材して記事を書く仕事は楽しくも、悩みの絶えない日々だった。苦悩をあげればキリがないが、面白くないのでここまでにしようと思う。

思わぬ変化は、書くことが減ったこと。もちろん仕事では、毎日のように記事を書く。その一方でnoteをはじめ、自分の言葉をつづる機会はドンと減った。

日本語、いと難しや。毎日頭を抱えながら、記事を書いている。日本語の難しさたるや。文章は主語、述語、修飾語、形容詞、その他もろもろの言葉を、並び変えて組み立てていく。それだけでも無数の通りがあるのに、文自体も構成して、必要な情報を前もって知らせ、誤認がないよう正確に伝えなければいけない。
そんなことを毎日考えていると、頭がカチコチになった。キンキンに冷えたガリガリ君のように。固い頭で書いた文章は読んでも頭が痛くなるだけだ。こんな意味の分からない面白くもない例えが出る文章になってしまった。ガリガリ君に日を当てて溶かし、食べごろにする作業が必要だ。

あいまいな言葉
カチコチキンキン頭で社会を見渡すと、日本語はあいまいに溢れていた。間違った意味で知れ渡った言葉があふれ、テレビでアナウンサーが読む原稿も構文がどこかおかしい。バラエティで流れる日本語はもはや日本語ではない。

記事を書くうえでは、何より正確性が重要だと学んだ。業界的には、当たり前な話なのだが、事実を確認するため、何度も繰り返し話を聞いて、何度も資料を見返す。そんな毎日を過ごすにつれ、書くことが窮屈で息苦しくなった。嘘を書いてはいけない、伝わりやすいよう書かなければいけない、間違った日本語は書いてはいけない。そんな決め事でぼくは縛られ、仕事以外で書くことが減っていった。

再開したきっかけは、好きな作家さんがnoteの更新を再開したこと。日々の楽しみとなりつつある。そのnoteには羨ましいくらいに気軽で、素敵な文章がつづられている。日記のようであるのに、言葉が大切に扱われている様子が伝わる。その言葉たちの育ちの良さを感じさせつつも、愛嬌もとっつきやすさも兼ね揃えている。言わばクラスの人気者。感じたままをつづった、まっすぐで温かな言葉が並ぶ。
言葉はもっとあいまいでいいじゃないか。そんな思いに駆られた。どうせコミュニケーション方法の1つに過ぎないのだから。全ての人に分かられなくたっていい、誰にも分かられないのは寂しいけれど、どうせスキの1つや2つが増えたり、減ったりするだけなんだから。笑


本音が分からない
1年の休止期間中は、持ち歩く手帳にボールペンで言葉を紡いでいた。辛い時期が長かったので、きっと文調も暗い。そして、手帳の中の言葉は、SNSにあげる言葉とは明らかに違っている。もちろん新聞に載る言葉とも。どうしてもネットで配信する外向きな言葉になる。いわゆる本音ではないのかもしれないが、手帳の言葉が本音かと聞かれれば、それも違う。
ぼくは、あまり本音を持っていないのかもしれない。理解してもらえるか分からないが、ずっと他人の顔色を伺いながら生きてきて、〜べきのレール上を歩きすぎたせいか、本音が分からなくなった。もはや、自分が分からない。一方で、強いこだわりも持ち合わせているのだから面倒くさい。ザ拗らせ。


書くこと論
そうだ、書くことは自分の思考を整理する行為だった。小学生の頃、叱られてばかりだったぼくは、ある日の日記を面白そうに書いてみたところ、褒められた。学級紙に載って、クラスメイトに手本として配られた。そんな成功体験が、ぼくが文章を書く原体験だった。
それから、読書感想文やら小説やらを書いてみては、少し鼻を伸ばした。同時に、自分のことをよく分からないように成長してしまったぼくは、即座に会話で思いを伝えることが苦手になった。それを解決する方法が書くことになった(気がした)。

なんだか文章論のような話に辿り着いた。この際、もう少し記しておこう。
ぼくは文章をつづることで、あいまいな言葉の中に自分の本音を探していたのだろう。ぼくの言葉はあいまいである。的確な言葉が分からないし、断言する自信もない。あいまいにぼやかすことで、言葉の抜け落ちる範囲を少なくしたい。我ながらずるいやり方だ。到底、理想の新聞記者には、ほど遠いことだろう。それはそれで修行していくことにしよう。
言葉はもっとあいまいでいい。思いのままにつづった分かりにくい文章の中に、一部でも共感できるところがあればいい。共感できなくてもいい。嘘ではない、本音が1つでも見つかればいい。
そんな言葉で良い。それが、まっすぐで温かな言葉だったのなおさら、良い。

まみや

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