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星々の出会いは、終わらない

七夕の日、私はこの地に降り立った。
愛とか憎しみとか何もわからないまま、ただ流れてくる現実を受け止め、夢のようなまどろみの中で日々を過ごして来た。
星やファンタジーが好きな私たちは、めぐまれた二人の子供達にスターウォーズにちなんだ名前を与え、奇妙な事に5月4日、メイ・ザ・フォース・ビー・ウィズ―・ユーのスターウォーズの日に私はアメリカ人になるテストを受けた。

私たちには、リセットボタンがないのだ。

そんな不気味な不安を抱えたまま、私はあっけなくそのテストに合格して、宣誓式に挑む。
ひとつの不安は消えても、次々と別の不安が私に押し寄せてくる。海辺に寝そべった水死体のように、私はその波に良いようにやられている。
結局何も変わらないのだ、私という”出来事”は。

生きにくさというのは人それぞれだろう。この不安が私の生きにくさの根源だった。この不安さえなければ、きっと私の人生も人並みの優しさを持っていたに違いない。不安材料は多いくせに、その不安に蓋をするような行為は一体なぜなのだろうか?先のばしにしておくと、何かから解放されるのだろうか?そんな事はない、その先のばしのせいでその不安はどんどんと巨大化し、恐怖の材料になるのだ。要するに自業自得なんだが、それに懲りずに私はそういう生き方を選んできた。先延ばしと恐怖は対峙しており、その先に不安があり、メビウスの輪のように終わりがない。

宣誓式の朝、平日の午後だったので私は一人で行くことになった。記入しなくてはいけない用紙をやっと記入したのが当日の朝、もしかしたら間に合わないかもしれない時間帯になり、慌てて家を出た。いつもこうだ。

リトルトーキョーの駐車場に車を停めて、シビックセンターの地下鉄に乗り7thメトロの駅で降り、ブルーラインに乗りピコステーションで降りる。

久しぶりの地下鉄とブルーライン。車を持っていなかった頃は様々なバス、電車・地下鉄を使いこなし、一人ぶらぶらしたものだ。あの頃は今と比べ物にならないくらい貧乏だった。
サンフランシスコのような急傾斜の坂の上にある、築100年の一軒家を連れとルームメイトでシェアしており、そのルームメイトはゲイで連れの事が好きで、私の事を変なライバル視しており、随分と悩まされた。この話はまた別の所で書くとして、結婚ビザでこっちに来た私にはまだ働く資格が無かったので、今よりも料理はしたし、歩いて色んな所に行った。
連れはアダルト関係の広告の仕事をしており、あまりいいとは言えないが普通に暮らせる稼ぎはあった。家賃は折半で、光熱費は私たちが二人ということで多めに払っていた。
ようやく労働許可証がもらえ、私はルームメイトの友人の経営している高級シルクの店でサンプルづくりと配送の仕事を任された。しかし、その仕事もあまり景気が良くないらしく、私が働ける時間もどんどん減っていった。連れも仕事によく遅刻し、クビになった。

お金が無い事は、暮らしていけない事だ。今の世の中、金が無ければ最低限の幸せも手に入れられないし、暮らせなくなってしまう。それはどの世界でも同じで、ここでホームレスになる事だけは避けたかった。日本にいた頃は親に任せておけば普通の暮らしが出来た。何の苦労もなく、己の精神面の心配だけしておれば、普通に頭上に屋根があった。
今まで毛嫌いしていた母を改めてすごいなあと思ったのもこの頃だ。
母はどのようにして私たち姉妹を女手一つ、普通の暮らしをさせてくれたのだろうか?帰宅途中のバスの中で涙が出て止まらなかった。
犠牲になった母の何かは、私たちの心に深い傷と、普通の暮らしをもたらした。よく考えてみると、それは母が自ら築き上げてきた幸せだった。母がよく口にした、四畳半の会社の寮に布団だけ持たされて家を出たのだということ、みかんを買うか買わないか、ずっと悩むくらいお金が無かったこと。

点数のような、数字の配列を私たちは命の次に大切なもののように扱う。
その数字をある程度持っていなければ、食べる事もできなくなってしまう。自給自足で生きている人間もいるではないかという人もいる。しかし、自給自足をするためには資金が必要だ。その資金なしではただのホームレスだ。ホームレスでも生きていけるかもしれない。しかし病気になったら?子供達は?老後は?私たちはやっぱり数字が必要だ。

ずっとホームレスになるかもしれない、ということに怯えてきた。だからホームレスを見かけるたびに、仲良くなろうとしたのかもしれない。友達になってしまえば、いつかそこへ行っても怖くないだろうと、気休めのように私はホームレスと同化しようとした。
しかし、ホームレスも大抵が普通の人間だった。普通であり、私と同じようにどうしようもなくなり、私と違い頼る人間がいなかったためにホームレスになっていた。私も頼る人間がいなかったら、もうすでにホームレスだったのかもしれない。

貧乏は貧乏を呼ぶ。貧乏であることはちっとも悪い事ではなかった。貧乏の中で生きるすべを見つけ、貧乏どうし助け合った。助け合いはいいと思う。傷の舐めあいをしたり、貧乏どうし妬み合いはじめたらおしまいだ。ルームメイトから逃れるようにして始めた義母との同居はカオスの入り口だった。結婚するまで会った事の無かった義母。連れは極力私に会わせたくない理由があったようだったけれど、貧乏はもうそんなこと言ってられないほど私たちを圧迫していた。

貧乏まではまだよかった。私は身近な人間から差別の対象にされたし、人間が怖いということも知った。他人を良いように利用する心のねじ曲がった人間の存在も知ったし、笑顔で近付いてきて人を陥れる人間がいる事も知った。本当は悪い人じゃないと信じたかった。でも関わらなくてもいい人間が、この世の中には存在するということを知った。
でも、ちゃんと見てくれている人間も存在するということ。そういう人間が最後まで私を守ってくれている、信じてくれているということも知った。だから私は真っ暗に飲み込まれなかった。

誠実であることは信頼をうむ。私はうそつきが嫌いだから、常に誠実であろうとした。常に誠実であることは無防備になるということもその過程で知った。時に自分を守るための曖昧さや、無難な嘘は必要だ。信じれると思う人に巡り合える確率は低いだろう。その人が本当に誠実な人間だということを見抜く力も必要だ。

金に無頓着な連れに愛想を尽かした私は、金に対して結局シビアにならざるを得なかったし、そこで無頓着に成り下がっていたらきっとこの生活は成り立っていなかっただろう。

時に怒りに任せて危ない橋を渡った事もあった。
だけど結局見えない何か運のようなものにいつも守られていた。
本当についているなと思う。

日々の行いは全てが積み重ねで、私は自分がびくびくしていたり、取り留めない不安に苛まされていた理由が分かった。
市民権をとる時、刑務所に入ったり起訴されたり、されなかった問題を起こした事はあるか聞かれるのだ。
日本に帰りたい理由が無くなった時、私は市民権の事について真面目に考えた。
もしもあの時怒りにまけて問題を起こしていたら、私は罵り合いをしたというだけでテロリスト行為を働いたという罪になり、刑務所に放り込まれていただろう。アメリカとはそんなところだ。犯していない罪を認め凄く短い刑期を刑務所で過ごしたら速攻で釈放される。
しかし無実を訴えようものなら15年も刑務所で過ごすこととなる。
市民権を持っていなければ、強制送還という事もある。

運命とは皮肉だ。
同じ人間なのに、生まれた時から過酷な状況にある人間もいれば、何も不自由なく生涯過ごす人間もいる。
だから最近死について不安なのだ。
生も死も実は全く同じで次元が違うだけ。
死んだあと行った場所でも実は生前の行いにより格差や運命が格付けされていたり、又は生前の行いなんて全く関係なく、同じような境遇に戻されたりするなんて事があったら、おちおち死んでいられないと思う。
死が無である事を願うまでだ。

宣誓式では5000人近い新しい市民と裁判官立ち合いの下、アメリカに忠誠を誓う。
LGBTQである事をを公にしているフラナガン裁判官が、この宣誓式に立ち会える事は自身にとってとても意味のある事だと言い、感極まって泣き出したので、もらい泣きしてしまった。
その後のスピーチもすごくよくて、アメリカ市民になるという事は、自由という事だ、という所で納得してしまった。

自由だ。
すごい、私これが欲しかったんだ。
日本にいた時は自由だった。
強制送還されるなんて怯えなくてよかった。
日常的な不安や生きにくさはあったけれど、自由だった。
こっちに来てからは、何の罪も犯していないのに常に怯えていた。不自由だった。私は自由に渇望していたのかもしれない。市民権をとってからは、そこの部分の枷のようなものは取れた。
自由なのだ。

まだまだ始まったばかりの新しい一歩。
ここに来るまでの事はもうほとんど夢のような次元にあるけれど、この自由という特権を生かせる何かが出来たらいいなあ、なんて企んでいる。

永住権を持っていた私でさえあんなに不安だったのだから、不法入国者はもっと不安なのだろうか?
もともと誰のものでもなかったこの大地を奪い合い、数字の大小で格付けされ、運命が決まる。嫌な世の中になりましたねえ何て、地球と月と太陽で対話でもしているのだろうか?
そうだった、結局はこの地球上の大多数の人間は臭いものに蓋をしているんだ。

すでに手遅れのような私たちの愚行は、救えるのだろうか?

私たちが益虫になれる日はやってくるのだろうか?


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