自分の価値創造のために、他者を使いたくない

セカンドキャリアで大学に行き、看護師と保健師の勉強をしていた時のことだ。

保健師は、個人ではなく集団、地域を見る、公衆衛生を扱う看護師。しかし、高齢者が多くなったり、昨今の医療の状況で、訪問看護など、看護師も病院から地域に出て行く人も多くなった。

そこで、何やらアイデンティティ危機感を感じたらしい先生方が、「最近は、看護師も地域のことを見ているから、保健師の存在意義を考えないと」のようなことを言っていて、何か違和感を感じたことを、時々思い出す。

別に、看護師、保健師って、名前はどうだっていい。そういった役割を担う人の概念創造に名前は必要だが、作られた概念の方を守るために、現実の捉え方を変えるのは、なんか変だ。

自分の存在が役に立つと価値がある気がする。

医者や看護師の力で、患者さんが回復すれば、存在価値がある感じがする。でも、一歩間違えると、医者や看護師の価値創造のために、病人をつくってしまうことがある。

コーチの価値創造のために、キャリアを迷っている人をつくったり、
カウンセラーの価値創造のために、苦しんでいる人をつくったり、
コンサルタントの価値創造のために、問題ばかりの企業をつくったり、
親の価値創造のために、いつまでも、子どもを子どものままにしたり。

私自身、だいぶ薄れたが、つい人の世話をしがちな傾向があるので、気をつけないと、自分の価値創造のために、無力な人、助けが必要な人をつくりかねない。

価値あることをしたいと思った時、自分が価値を創造していると思った時、疑ってみたい、考えたい。

自分の価値創造のために、他者を利用していないか、と。
そして、そもそも価値という言葉にまつわる呪縛も。

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