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対話と民主主義について

先日、「対話を通して共創(Co-Create)するということ」という記事を書いた。

最近、10人弱の割とたくさんの人数で講座やプログラムの運営をしたりすることが多いが、これが面白い。人数が多いと確かに手間がかかるのだけれど、多様な声が流れ混むから、その手間を超える創造的な未来が待っている。より世界の全体性へと近づく。そして、その人数でも、全員がある種の納得感を持って進んでいくことが可能である。これって、ある意味「民主主義」なんじゃないか。

それぞれの文脈を出すと自然と物事が決まって行く

民主主義ってなあに?を探していて、非常に平易な説明を子供向けのページで見つけた。

「みんなのことは、みんなが話し合って決める」こと。これを、「民主主義」といいます。

自分が運営に参加しているプログラムで、運営メンバーが自分の中にあるものを場に出して行くことで、無理なく自然に物事が決まっていくことがある。例えば、「対話を学ぶ講座2」では、プログラム構成は全く決まっていなかったけれども、それぞれが「なぜ、このプログラムの運営に関わろうと思ったのか」を出し合った先に、自然に仕立てが決まって行った。

そして、そうやって決まったものには、自分の文脈が必ず流れ混んでいるから、決まったことと自分との重なりが合って、自律的な関わり方ができるように思う。だって自分の人生の意味の流れの中にあるものだから。

人は必ず共通基盤を持っているから、必要なものは必ず立ち現れる

よく出す図であるけれども、私はこのように世界は1つにつながっていると考えている。

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そして、宇宙の、世界の大きな意味の流れの中に、個々人の意味の流れもある。だから、1人1人の内側にある声、その人にとっての文脈を丁寧に言葉に出し、重ね合わせて行けば、その宇宙の大きな意味の流れに沿ったものが、必ず立ち現れると思う。そこを具現化して行けばいい。

多数決ではない、1人1人の声を重ね尽くした上で選択

民主主義の決め方というと、ある程度話し合って多数決というのがパッと頭に浮かぶ。それは早いけれども、少しずつ自分の文脈とずれてしまうから、どうにも自分ごとにならないようなことが起こってくるように思う。時間がかかっても丁寧に言葉を重ね合わせて行けば、選択した後、結果的に自律的に行動ができる人が増えるのではないか。実際、自分が関わっているプログラムではそんなことが起こっている。

また、それが可能であると思わせる文章がデヴィット・ボームの「ダイアローグ」にも書いてある。

さて、その北アメリカの部族はときどき寄り合いを持つことがあった。彼らはただひたすら話すだけで、何の目的もなく話しているのは明らかだった。そこではどんな決定もなされなかった。その中にリーダーもいない。そして誰もが参加できた。他の者よりは話に耳を傾けてもらえる賢い男か女−年長者だろう−がいたかもしれないが、誰が話してもよかった。会合は長々と続き、やがてまったく何の理由もなしに終わって、集まりは解散する。だが、そうした会合の後では、誰もが自分のなすべきことを知っているように見えた。というのも、その部族の者たちは互いを充分によく理解したからである。そのあと、彼らはより少人数で集まって、行動を起こしたり、物事を決めたりするのだった。 P.62

対話によって、物事が決まっていく(決めるというより)社会は、宇宙の文脈にも、個人の文脈にも沿っていて、無理なく大きな推進力を得らえるのではないかと思っている。

<参考>

対話によって社会を築く民主主義の国デンマークの在り方からも、その可能性を感じる。


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