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正義の暴走を起こしている人々は何をみているか?-学級崩壊から、ひまそらあかねが問題にするナニカの正体まで-

「多様性の重視」が叫ばれる昨今ではあるが…

昨今、どこもかしこも「多様性への理解」を強調する向きがある。

というか「多様性への理解」を盾にした特権要求のゴリ押しも多い。
左派障害者運動やLGBT運動などが典型的だろう。

ハッキリ言って「知らんがな」「そんなに強調しなくても多様だよ」と言いたくなることも少なくない。



悪ガキの反逆

ちょっと前に面白いツイートを拾った。


https://twitter.com/konoy541/status/1781529306470183079


首都圏の小学校で、学年はおそらく低学年であろうと思われる。

これを見て、誰かが、所謂マイノリティ児童に小突かれたときに「多様性の理解が大事ですから許してあげましょう」とかの変な決着とか、教員がやってなければいいんだが…、と思った。

まあ、そういうことがあった可能性も大いにある。

詳しいことは割愛するが、娘が中学生の頃に、部活でそういった決着をつけられて娘が激怒していたことがある。そして部活崩壊に近いところまでいった。

それにしても、ギャングエイジの子どもたちはいい意味でも悪い意味でも柔軟である。おそらく「多様性免罪符」の押し付けに対して「多様性免罪符」を悪ふざけのネタにしてしまったということなのだろう。

低学年の悪ふざけなので、禁止されたら、やらなくなるとは思うが、まあ、また似たようなネタを見つけるだけだろうとも思う。

ちょっとここで、教室内の子どもたちの動きと「規範」について考えてしまった。


図11



小学生くらいなら、いたずらっ子はどこにでもいる。 学校の教室という空間はもともと強制性を持っているから、「規範:正しさ」への反発は元々起こりやすい。

「A教師の正しさ」に接したときの子どもたちの挙動にもいくつかのパターンがある。

  • ①教員の正しさを単純な遊びに転換する子。

  • ②教員の正しさをハックして教員のコントロール権を実質奪う子(実質機能することがあるのは概ね小3以降だろう)

  • ③教員の正しさに追従or阿る子 

  • ④②と③の間で右往左往or風見鶏する子

  • ⑤独立型 

子どもの性格、発達段階や、その子の家庭、社会との関わりによって、その時の子どもの規範参照ポイントは異なってくる。

この「多様性遊び」をやりだしたのは①の層だろう。嫌いな先生の口真似などをしたり…といった子は昔からいた。

低学年で叱られやすいのは①の子ではあろうが、それが後々どれほどの影響を持つか?というと、実のところ大した影響はないようにも思う。

「教師の正しさ」の肥大化

上記のような「多様性おふざけ」が発生するという状態は、「教師の正しさ」が肥大化した状態ではないだろうか。


図2

悪ふざけが加速する状態というのは、②の子が①の子に接近するor教員の正しさに反発する形になると形成されやすいパターン

これが高じて、教員の権威が失墜すると、学級崩壊パターンに陥りそうである。

もうひとつ、逆パターンもある。②の子が③に接近する形になると形成されやすいパターン。いわゆる学級王国型である。

図3


教員の権威は失墜しにくいが、学級会いじめや排除型いじめの類が起こりやすいだろう。

社会規範の参照範囲を考えてみる。

これまで出した図に、教室外の正しさについても一応放り込んであることにお気づきの方もいらっしゃるだろう。

子どもの生活空間は学校だけではない。家庭を起点に、徐々に広い世間をみるようになる。参照する「規範」として、少なくとも「家庭」と「世間」は想定しておかねばならないだろう。

そして、人間は、出来合いの「規範」だけではなく「事実」も参照する。


学級の中の子ども個人の参照するものは下記のような関係になるだろう。

図4

学校内で起こった事象に対し、どういった態度をとるべきかを判断する際にも、「A教員の正しさ」だけが参照されるわけではない。
 
「B 家庭の正しさ」
「C 世間の正しさ」
「D 世間の現実」

も参照される。

それなりに蓄積している内部参照と、都度参照する外部参照を分けてみるとこんな感じになる。

図5

教員の正しさが外部参照時に大きく破綻しないことは重要であると思う。

外部参照時に破綻したまま通そうとすると、教室内で「教員の正しさ」が肥大化してしまうことになるだろう。


内部参照規範の成長による変化。

ちょっと外部参照はおいておいて、個人の内部参照の変化について考えてみる。

人間は子どものままではいない。少なくとも、年齢を重ねていく。

図6

小学校に入ったときの「学校的正しさ」は、その担任教師の提供する「先生の正しさ」だるが、それとて、担任教師が変われば「重なっていく」し、中学に入ると触れる教員数も増え、多層化していく。

そして「学校で学習したこと」から広がり蓄積する部分も増えていき「学校」を離れる段階に至る頃には「学校」というものとの距離感もかわるので「教員の正しさ」から「学習した正しさ」への質の転換が起こっていくのがしぜんであろう。

 

だが、どういうわけだか、昨今の「正義の暴走」を見ていくと、オトナモード(下図左)への移行がうまくいかないのかに「学校的規範」をぶん回すひとが少なくない。

しかも、一部分野でだけ起こりやすい…というパターンまである。
下図右のような、学校的正しさの肥大化…も、もちろんあるだろうが、それだけでは説明のつかない部分もある。

図7


特に「集団化」とも大きくかかわるように見えるので、集団で考える必要がありそうだ。


内藤朝雄氏のIPS理論を引っ張り出してみる

内藤朝雄氏は、「いじめ」の構造についてのスペシャリストである。

ジャンルは…というと社会学なのだろう。
ただ、SNSでボコられている社会学者とは一味違う。

教育学者がろくに問題にしない「いじめ」の発生構造について、ずっと研究されている…というか、最近は「いじめ」を通して人間の暴力性発露のメカニズム構造の研究をされているようである。

上記の本は結構重い。もうちょっとダイジェストされた本は下記


ところで、内藤氏のその後の論文で提唱されているものに「IPS理論 IPS: Intrapsychic-Interpersonal-Spiral」というものがある。

概要はこちら。


ちょっとそこから画像を借りてくると…

明治大学Webサイトより https://www.meiji.ac.jp/koho/press/2016/6t5h7p00000m21y5.html


なんか個人水準の統合の円が…似てるんだ。

図7(再掲)


内藤氏は「社会統合」(これは”ある社会の成立”といったところだろう)に関して、「心的メカニズムユニット」を想定しており、私は「規範の内部参照ユニット」を想定したわけだが、もしかしたら「参照ユニット」を、内藤氏の理論と接続すると、いろいろうまく説明できるかもしれない。

ロジック的にはユニットの数はどうでもいいのだが、社会を考える上で、特殊な場合を除きこれでかなり事足りるようにも思うので、このまま考えを進める。

IPS理論に参照ユニットを組み込んでみる

内藤氏の図に、参照ユニットをサクッと乗せてみる。ただし、枠が2重化していると見にくいので、わかりやすいように上下に展開しておいた。

とりあえずA枠は「学校的正しさ」で統一しておく

図8

こうすると、内藤氏の言う「相転移」も図にのっけてしまえる。

さて、次にいこう。

Aユニットに学校的規範をそのまま保持しているものが、下の結合ルートを励起しやすくそうでないAユニットを持っていると励起しにくいとする。

上の図に1個体だけ、後者の個体を書き加えると下のようになる。


図9

特定の規範ユニット直結の規範社会結合をした「場」に、真ん中の個体がいると…従う規範が異なるということが起こりえる。

そうだ、これがいじめリスクだろう。

ストレートな「学校的正しさ」をもたない者にとってはこの「場」は、なかなかしんどかろう。
 

外部参照を組み込む

ここで、先ほど保留しておいた「外部参照」を持ち出す。

現実と理想世界のどちらを参照するかの違いが出てくるだろう。概して学校的規範は理想世界を参照していることが多いように思う

少し集団を大きくして図を描いてみる。

図10

個体がどちらのルートの結合が起こっているかもしくは、どちらのルートを多用しているかで、現実ベースの結合が不可能になってしまうことはありうるだろう。

ユニット直結ルートそのものの性質

直結ルートを起動することとで、

  • 団結力が強くなる

  • 組織化までの速度が上がる

といったことは起こりがちだ。

内部ユニット直結方式自体が、参照性を規定するものではないだろう。

火事場の馬鹿力、災害時の連携等で、早いことはそれなりにメリットになるが、概ね現場にいる場合には現実参照性は高いだろう。

「C世間の正しさに」に「自然災害サブユニット」がついていて、それをとおして現実参照性の高い高速ルートを開通させていると考えられる。

高速結合ルート自体は、人間の危機対応本能として組み込まれている部分ではないかと考えたほうが良いだろう。

図11


さて、一旦自然災害オプションは消して、次に考えを進めよう。

かつてあった大きな理想

参照対象としての理想世界は、さまざまなものがあったのではないだろうか?

しかしながら、大きな「理想世界」はなかなかうまくいったためしがない。

図12

ローカル集団によっては、現実参照親和性の高い集団とそうでない集団(理想主義的)ができるといったことは当然起こるだろう。

マルクス・レーニン主義

さて、昨今の本邦に関係する「理想主義」の最も大きいものとしてはマルクス・レーニン主義があげられる。

図13

マルクス・レーニン主義の理想世界と組織論に基いた学習によって、理想世界参照のバイパスルートが起動しやすくなるよう「人格発達」させる。

これが極まると自然「理論の学習」が進み、その結果として「理想世界」が現実化する(=現実にすり替わる)はず という…謎の理論である。

ここまで図にしてしまうと、破綻するに決まっているのが丸わかりになるが文字情報だけで書いていると、その問題性が見えにくいのだろう。

理想世界の現実化に熱中した人も、それを世界中に広めようとした人らもいた。だが、その理想世界ができつつあるように物事を隠蔽したり、ウソを作った者もでた。

この過程でアジテーションやプロパガンダ、洗脳といった技術が発達したのは間違いないだろう。

…だが、ソ連の体制は現実への対処性能をさげつづけ…、崩壊した(1989)

本邦で問題だったのは、ソ連の教育システム(それもスターリン時代のもの=集団主義教育)が戦後教育にかなり持ち込まれてしまったことかもしれない。

理想の分裂

冷戦も後半に入ると、共産圏の「理想とは程遠い」実情が伝わっても来るようになり、「理想」それ自体が分裂しはじめる。

図14

動作傾向が同じでも、参照世界が違うもの同士でうちゲバが起こる構図はこういったことだろう。

内ゲバの構図


図15


いじめとキャンセルカルチャー

排除型いじめ・ポリコレキャンセルカルチャーの構図は下記。

ローカル集団の現実参照性が高い場合は排除されない個体が、下図点線枠が生息域になると「理想を共有しない」という理由で排除されてしまうことが起こる。


図16

共産主義的教育の学習規範というのはそのもの自体が「学習強迫」といった性質をもつ。

理想世界の分裂が進めば進むほど、ある事象に際しての参照ラインは下側のみ増加するので、共産主義的教育に適応してしまうと理想主義に偏りやすいために、「理想を共有しない者」に対して排撃に奔りやすい。

メディアの影響

次に、この路線で、メディアの影響について考えてみる。

上下いずれかのの規範ルートが起動した場合に、それぞれ規範空間を生成するが、それをどの程度の範囲でメディアが扱うかは、媒体やタイミングによって異なってくる。

落差の出やすい条件三つで図にしてみると下のようになる。

図17

A大型台風直撃時や大地震直後の報道は
基本、現実参照率が高い。
(能登半島地震では一部マスメディアがやらかしていた)

B日常のマスメディア報道。
下方にシフトしすぎると、社会成員が現実を参照しにくくなる。

Cポリコレ書籍群
「当事者の語り」を多用するが参照地点は理想世界である。

現状、マスメディアの報道しない自由が強いようで、Bが下方にかなりシフトしているように見受けられる。
 

多様性再考 新しい理想主義

共産圏の崩壊後、「理想」はさらに分裂をすすめ、小さい「理想(=ポリコレ)コミュニティ」に依存するようになっているのではないだろうか。

いわゆるマイノリティコミュニティだけでなく、それぞれの「小さい理想」
をもつコミュニティが、それぞれの不可侵の理想を掲げながら、ゆるいネットワークを組んでおり、個体は都合によって各コミュニティを参照する。


図18

コミュニティ同士は基本的に相互不可侵であるが「学校的正しさ」からは自由はなく、「学校的正しさ」を肥大化させたものが、この「理想ネットワーク」へ内部の小コミュニティ成員になれる仕組みである。

図中の「い」の領域は多様であるが、成員の行動スタイルは学校的規範に大きく縛られる。

さらに、本邦では、集団主義教育が根強く、学校型規範を強く内面化した場合、マルクス・レーニン主義的な教典主義的な「学習依存」も生じやすく、「い」の領域の多様性が増大するほど、「あ」にあるような個体群が「正しくあるための」参照ポイントが増え、現実側への参照が減りやすい。

事実をフィードバックする機会が減り、理想ネットワークの中だけでしか思考できなくなる。これが、エコーチェンバーであり、学校型規範を強く内面化した人が先鋭化しやすい理由かもしれない。

「ナニカ」は陰謀論ではないというはなし

そうなると、現実参照性の高い、「学校的正しさ」に異を唱える目立つ個体は。彼らにとって邪魔になる。

図19

上の図の理想コミュニティ群は。ときによって幾つかずつ「連帯し」彼らの理想を阻むものを排除し、社会や行政に「要求」を突きつける存在ともなりうる。

元々の性質として現実を参照する機能が弱いために、己の「理想とする正しさ」を主張するものの、現実参照群とのすり合わせが難しくなっていき、被害感を増幅させやすくもある。

そして彼らは「当事者(B)中心主義」を手に、言葉巧みにゴリ押しをする。こういったもののうち、行政に入り込んでいるのが「公金チューチュー組織」だろう。

当事者(B)中心主義についてはこちらの記事に詳しく書いた。


もともと現実を参照する機能が弱いので不景気の世の中で現実にモノを売って商売することは難しい個体も多く、言葉巧みに「フリーライダー」になることで「理想」と「権威」を維持しようとする。倫理観が欠落した現実主義者(投機家とか投資家とか)がサポーターになることもある。


こう考えていくと、ひまそらあかね氏が規定した「ナニカ」は、「離合集散を繰り返す、理想主義コミュニティのご都合主義的連帯」といいかえることができるだろう。

図20

ちなみに、この手合いのネットワーク運動、本邦での原型としては「日教組教研運動」がはじまりだと思う。多数の教員サークルにプチカリスマがいて…というシステムだ。

1980年台に米国からネットワーク運動論が流入するより20年以上前に既にあった…ということが驚きである。


処方箋

  • 公金チューチューをなくし、国民が現実を見やすいようにする(公金チューチュー集団はマスコミと連携してしばしば強烈な事実隠蔽をする)

  • 教員の就業環境をよくして、理想主義が過大に蔓延る基盤を壊す。

  • 教員養成課程の改善(教育学者が理想主義者だと再生産が続く)

  • 集団主義教育被害者のリハビリ促進(これまで教育を蝕んできたもの詳らかにする)(彼らの情報操作に乗せられやすく反発しにくい)

こんなところかしらね。



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