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文章を書く理由を考えてみた

追い詰められて、感情が追いつかなくなるときに文章を書きたくなります。他方で、どうしようもなく幸せであったり、晴れ晴れとしていたり、そんなときも書きたくなります。いずれの場合も感情が自分のコントロール外にあるときに執筆意欲が湧くのですが、今日は幸運なことに後者です。精神的には大変ありがたいことです。
ああ、ここまで書いたときは2021年の11月半ばでしたが、今は2022年1月末。今の状態としては前者、です。

いずれにしてもわたしにとって「執筆」というのは創作意欲による行為というよりかは「自分の思考を整理し、理解することで気持ちを落ち着けるための手段」なのだと常日頃思っています。

これより先は敬語を抜きます。

感情が先行する状態

心と身体がつながっていることは言うまでもないけれど、感情が先行している状態のときは、某駅のメチャクチャ速い「歩く歩道」を思い出す。自分の想定よりも速く体が動く、アレ。身体のコントロールが効かない状態。エスカレーターではあまり感じないのだけれど。

「感情が先行している状態」とは何なのかという話だが、恋人と手をつなぎたいだとか、抱擁を交わしたいだとか、自分の意思に反して涙が止まらなくなるなるだとか、そういう状態だ。

自分の内部に潜む未知は怖い

と、思う。理性を超えた感情は、自分の中の未知だ。
前述の恋人と手をつなぎたいだとか、そういうプラスの愛情であっても、幸福感と同じくらいの恐ろしさというか、ジェットコースターで落ちる直前の浮遊感というか、特有の警戒心を生むものだと思っている。
反対に鬱屈した感情も、これ以上進行したら戻れない気がする、という一種の恐怖心を生みながら自分の中に広がり続けるときがある。
自分でコントロールして然るべき"自分"のはずなのに、急に自分の想定外の感情に引っ張られたら、こちらはどうすればよいのだ。となるのだ。

整理のための執筆

冒頭の話「執筆は自分の思考を整理し、理解することで気持ちを落ち着けるための手段」に戻る。
文章では嘘をつけない、といつも思う。
それなりに歳を重ねれば、対人関係でうまいことを言わなきゃいけないときもある。振られた質問に対して、自分の真意と周りが求めている答えの中間に据え置かれた回答を予想し、口にする。嘘にならない範囲のことを話さなくてはいけなくなることが増える。
だが、文章は口でのコミュニケーションよりも遥かに言葉選びの時間を要する(少なくともわたしの場合は)。
言葉を選ぶのは、自分の状態を最も適切に表す道具を探す行為と思う。
だから、文章で嘘をつく理由がないのである。
それらをつなげて、ニュアンスを整えて、エイヤで出す、この流れが自分にとっては最高の自己分析になると思っているのだ。そしてその自己分析は、自分の中に潜む未知を少しずつ沈静化させていき、わたしの心を落ち着かせるのである。これが、「整理のための執筆」。安定剤のようなものなのだなあ。

でも未知がない自分なんてつまらないので、整理もほどほどにしないと遊びのない人生になっちゃいそうだな、なんて思ったところで今日はもう止めにしておきます。
おやすみなさい。



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