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「理想の子供像」って親の幻想ですよね?

幼いころのわたしは、おとなしい子供だった。なにかに秀でている訳でもなく、運動神経が良い訳でもなく、勉強に至ってはこの年代だから「できる/できない」の意識はなかった。少なくとも、ハキハキとした、活発なタイプではなかった。

小学校低学年の授業参観を終えると、母はわたしにこう尋ねた。「まみちゃんは、授業がわからないの?」

わたしはビックリして、「わかるよ」と答えた。母は、不満そうに言う。「どうして手を挙げないの? 〇〇ちゃんは、いつも手を挙げているよ。」

これは、わたしなりの理由があった。まず、挙手の必要性がわからなかった。自分で「わかっている」という事実があればいいし、先生に当てられて、目立つのも好きじゃなかった。

それを告げたら、母は、「手を挙げないと、わかっているか先生には伝わらないよ」と言ったので、「先生はテストの採点をしているから、どれくらい理解できてるかわかるはず」と答えた。母は、話にならないと言う風に二の句を飲み込んで、「とにかく、授業中に手を挙げなさい」とだけピシャリと言った。

これが、勉強に関して母がわたしに注意した、数少ないエピソードのうちの一つである。

のちになって、どうやら挙手することが成績に響くらしいということを理解したわたしは、人並みに授業に参加するようになった。

母はきっとこの頃、〇〇ちゃんみたいになってほしいとわたしに願ったに違いない。活発で、人前に出ることに抵抗がなくて、素直で言い訳しない、小学生らしい子に。

一方、わたしはというと、〇〇ちゃんみたいになりたいと考えたことは一度もなかった。それは母の一方的な願望でしかなかった。

そして今、わたしは大人になった。「あなたは聞かない子でしょう」と、ことあるごとに、半ばあきらめてきた母は、今はわたしのことを、逞しく思ってくれている。

そしてわたしも、今の自分が嫌いじゃない。よそ様に比べて至らない点は多々あれど、自分の人生に満足しているのだ。




先日、子どもの保育園で保育参加があった。希望する保護者が一人、園児に交じって遊ぶ日だ。

娘は、ドッチボールで盛り上がる同級生を尻目に、おままごとに勤しんでいた。わたしはヤキモキしていた。体を動かして思いっきり遊んでほしい。活発に楽しんでほしい。『みんなと同じ遊びをしてほしい』と思った。

しかし、振り返って、自分はどうだったろう。わたしも、ドッチボールには興味がなかった。おままごとをしたり、絵を描いたり、本を読んだりするのが好きだった。それが「いけないこと」「好ましくないこと」とは思わなかった。わたしは、これでいいのだ。

娘も、きっと、そう。彼女は全身で表現していた。わたしが来たのが嬉しいようで、少し甘えん坊になりつつも、精一杯役になりきっておままごとを楽しんでいた。

『みんなと同じ遊びを』というのは、わたしの一方的な願望だ。よくある、親の押し付けだ。それを、幼いころのわたしはどう思ったか。「バカらしい」の一言である。

人間は、腹落ちしないと行動に移さない。そして、親の思い通りにならなくても、それなりに育つものだ。

わたしは、娘の考えを尊重したい。彼女が現状をどう捉え、それに対しどう振る舞うのか。

意外と子どもは、深くまで考えているものだ。

必要な助言はしつつも、娘を信頼し、可能な限り、彼女が自分で人生をコントロールできるように、任せたい。それで困る日が来れば、一緒に悩みたいと思う。

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