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日記4月23日(金)。 #日記  41歳からの哲学。

池田晶子さんの大ファンだ、と何年も何年も言っているのだが、部屋があまりに汚なすぎて、池田さんの本が新しく買った積読本の下にうずもれている。

最近上の積読本を、別の床(!)にどけて、池田さんの本の表紙が、机から見下ろせるようにした(!!)。

まあ、要するに、床に本が溢れているわけである。

一時は”断捨離”ブームに少しだけ影響されて、段ボール箱を何十箱か、古本屋に売ったことがある。古本屋は基本的に買うところで、売ることはほぼない。名古屋の古本屋がどこにあるか、と調べて、結局は鶴舞にある古本屋にもっていった。

我が本たちは、マンガは別にして、雑多な出自である。ここ何年かはBOOK OFFに入り浸って、”これはいつか読まなアカンな!!”と感じる本たちを買ってきた。いつか、である。今、ではない。

ので、溜まるのである。時々は”これは古書で値が高いぞ!!”という下世話な気持ちで買った本もある。結局、溜まりに溜まって、どんな本を持っているかがわからなくなってきた。

まあ、安かった。仕方ない。引き取れませんね、と言われた本は、BOOK OFFにもっていった。まあ、一冊平均で5円位か?

値が付きません、と言う本を置いて来たので、割り算の母数はそれも入れている。だが、だいぶん魂が傷ついた。市場へ子牛をつれてゆく少年の気持ちがこれほどわかった時はなかった。

あまりに辛かったので、購入を控えるようになった(自分比)。基本もう売りたくは、ないではないか。

最近読んだ森博嗣氏の本に勇気付けられた。捨てる必要はない。なんでもずっと持っている、とおっしゃる。もちろんそれが置ける場所を確保されているからできることではあるが、場所はなくとも気持ちは真似られる。

今後は基本的に、森流でいこうと思っている。

その森氏のご本も、図書館で借りさせていただいた。申し訳、ありません。

41歳からの哲学。

池田さんが週刊新潮に掲載されていたエッセイを中心に編んだものだ。そして私が初めて手に取った、記念すべき池田本でもある。

自分とは、精神である。精神であるところの自分を信じなさい。自分を信じられなければ、他人も信じられない。自分を信じるということと、他人を信じるということは、全く同じことである。なぜなら、人間の精神は、それ自体で自他を超えているからである。
P.58 41歳からの哲学 池田晶子

この本以降、私は池田さんの本全てを購入した。絶版(池田さん自身が絶版を望まれた本だが)も、中古で1万円以上したが購入した。なぜ、そうなったのか。改めて適当に開いたこの頁を書き写してみて、その理由がわかる。

真実の金太郎飴

これにつきる。どこを繙いても、どこをながら読みしても、そこにはすべての言葉が絶筆です、という気持ちで文章を綴られた池田さんの魂が、書かれているからである。

安易に、読み飛ばせない。

そして、勇気を貰える。

これである。上記の言葉、これは山奥の中学校に講演を頼まれ出かけた池田さんが、純真な山奥の中学生の瞳を頼もしくもすこしくたじろがれて(たぶん)、真実をつたえようと、つっかえつっかえ伝えようとされた内容だ。

真実を伝えるときには、言葉が選ばれなければならない。その選択は、数多の言葉から、最適の言葉を探そうとされる池田さんの生徒への責任感から、よどみなく、すらすらと、はありえない。適当、はないのである。

この項は、平成16年1月22日号の週刊新潮掲載だ。ゴシップと醜聞(おんなじか)にまみれた週刊誌が、池田さんの記事があると思うだけで、スーパーの棚で光ってみえていた。

その頃の、中学生の皆さんは、いまどうしているだろうか。あの時、授業で、池田晶子さんがつっかえながら伝えようとした真実が、皆さんの魂のどこかに、かすかに光っているに違いない、と

確信している。

(週刊誌でこの真実。週刊誌を作っている皆さんを、すこしく尊敬しました)




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