10.31 映像はしんどい。
私はもともとマンガがとにかく好きで、一方でいわゆる「お話」も好きである。
アニメであれば、マンガを読んでいるのとほぼ同じモードで見ている。つまりマンガの画面と画面の行間ならぬ画間をつなげて読んでいるからだ。
なので、原作付きのアニメはすこし疲れる。原作を読み込んでいればいるほど、既に「画間」が脳内でできているので、アニメ化されたときに違っていると、脳内が「違う、これは違う」という声でいっぱいになってしまい、見るのがしんどくなってくるのだ。
よく漫画家の方が、「映像と漫画は別ですから。」と述べ、「好きにやってください。」という時がある。こういう漫画家であれば、アニメ化をする側も楽であろう。一方でいろいろ口をはさむ方もいるだろう。そういう時の制作側の苦労は、考えるだけでも大変だと思う。
よくわかった(私の視点で、ですが)漫画家であれば、「私の作品がどうなるのか楽しみ」といったり、「私はアニメのファンです」などと言ったりする。そうなってくると私のように違いに敏感な人間もアニメ化に興味が出てくる。
マンガであればアニメと媒体として似ているのでしんどいが、いわゆる物語をアニメ化することもある。思い出すところではジブリの「ゲド戦記」。宮崎吾郎さんは頑張ったと思うのだが、いろいろな意味でしんどい面がある。
当初宮崎駿氏がゲドをアニメ化したい、という自己の中での機運を得て、ル=グインに交渉した際は、ル=グインは宮崎駿氏のことを知らず、多くの世界中からやってきていたであろう映像化提案の一つと考えたのであろうか、断っている。
その後トトロを見て宮崎氏の才能にほれ込んで、次の機会に、すでにゲド映像化の機運を内部で失っていたであろう駿氏が制作してくれるものと誤認(これを誤認、と言ってしまうのは契約的にはむつかしいのかもしれないが)し、子息の吾郎氏が監督であっても、ジブリであれば同じフィーリングの作品ができてくると考えてOKしたのだ、と個人的には理解している。
ル=グイン女史の感覚はものすごくよくわかる。掌中の珠のように、自らの魂が語った物語として作った作品が、トトロを作った駿氏の魂とうまくシンクロすると思い、自らのものとは違っているかもしれないが、「それを見てみたい」と感じられたのだと思う。
漫画家が、自分の原作をベースにしたアニメをみて「ファンです」と敢えていうこと。これは制作側にある程度の逸脱、あるいは解釈の変化を認めてもいいですよ、というサインなのだと思っている。
宮崎駿の解釈は魅力的だ。私はひそかに宮崎作品では「ハウル」が1番目か2番目に好きなのだが(対抗するのはコナンかハイジ、ですかね)、これは私があの作品がまとう魔法の感じが大好きだからだと思う。他の作品より、ファンタジー要素が強めなのが好みなのだ。
だがあの作品は原作の気配を見事にとどめていないだろう。駿氏がてがけていたら、ゲドの解釈は、原作とは違いつつも違った意味でフィクション界に屹立する名作になっていた気がするのだ。
ル=グインもたぶんそう思ったから、ワクワクしてジブリ=駿氏だと信じて、OKしたのだ、と思う。
建築家をベースにする吾郎氏は、ドラゴンの絵を駿氏に見せた時、OKが出た、ということを読んだ気がする(気がするレベルですみません)。たしかにあの絵は、偉そうなことをいうが、ファンタジー好き、ドラゴン好き、そしてゲドの読み手でもある私も、なかなか期待できそうやな、と思ったものだ。
だが、うまく動かなかった。ストーリーも、なんというかうまく練れていなかったと思う。なぜなんだろう。たぶんジブリの駿作品は、ストーリーもほぼ駿氏が実質は結果的に生み出しているからだ、と思っている。
映像がしんどい、という話であった。勝間和代さんもおっしゃっているが、映像には情報が入りすぎている。私もその内容を処理するのに、脳みそを結構使ってしまい、結果しんどくなる。文章や一枚絵、そして一枚絵の集合であるマンガであれば、そこまで疲れない。持っている情報が同じ時間内でそれほど密集しないし、自身でコントロールできるからだろう。
朝の連続テレビ小説。あれくらいの時間と情報量であれば、それほど脳は疲弊しない。あのスタイルが今人気があるのは、特に歳をとってからの脳みその処理能力の問題もからんでいる、と、睨んでいるところだ。
(宮崎吾郎さんには全く恨みはないんですけれどね。。。)
お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。