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日記5月30日(日)。 #日記  小説の書き出し。

3日間の内、2日間の歩数が1000歩より少なかった。

そのことで、ストレスを感じるのだが、そのストレスはなぜ発生するのだろう。

健康の為に、望ましい運動をすることが出来なかった。結果的に将来の健康が害されるのではないだろうか。

そのようなストレスだろうか。

つのだじろうの古典的名作に、恐怖新聞、というマンガがある。少年チャンピオンに掲載されたその漫画、配達される”恐怖新聞”を読むと寿命が一定期間縮む、という設定であった。しかしながらそれを読む。読まざるをえない、というストーリーで、読んでいる自分自身も、間接的に影響をうけるのではないか、というこわいものみたさの感覚が、当時読者を獲得した一因であろう。

運動不足ストレス、はこの恐怖に似ている。あるいは身体に悪いものを食べた罪悪感、とも近しいものだろう。”将来の自分に悪いことをしてしまった””負の貯金をしてしまった”という、これは自動的なエゴの一種だろう。

エゴ、であれば、それを白日の下に晒し、目の前に見ればそれはわかりやすく対処できうる(いつもできるわけではもちろんないが)存在となる。

運動不足。それが体によくはないことはそうなのだが、そのことで気に病むことのほうが、悪影響が高いのだ。

と、たとえばそういう”白日晒し”。

ともすれば運動不足とストレスのダブルパンチである。

エゴはそういう負の感情を、生きる餌にする。負であっても、理由となれば構わないのだ。なんらかの、生きる理由、になるからだ。

その構図はすぐに忘れる。忘れることもエゴの仕業?となると堂々巡りになってくるが、少なくともこの”白日晒し”をまめにやることは、結構重要だと思っている。

小説の書き出し。

村上春樹が、そのデビュー作である”風の歌を聴け”をまずは英語で書いて、それを自ら”翻訳”することであの独特の文体を生み出した、という誕生秘話を、内田樹氏の著書から知った。

あの小説の主人公は村上氏自身のことが投影されている。100%村上氏である、とは言えないのかもしれないが、村上氏の中から生まれて来た時点で、村上氏の一部であると言える。

英語を学ぼう、と思うことなく、神戸で船員が安く古本屋に売ったペーパーバックを読んでいるうちに英語が身についた。そう村上氏は語る。

当時の文化はすべてフランスからやってきた。フランス語を読めることは、自身がフランス語によってしかアクセスできない、最新の文化を享受するための手段であったがゆえに、フランス語を学んだ。そう内田樹氏は語る。

翻って、私自身はどうだろうか。英語も、フランス語も出来ない。現在外国語のプロであるお二人は、つまり”勉強”として外国語を学ばなかったがゆえにプロになれた。私の前には”手段”として外国語が現れることがなかった。いや、機会はあったはずだ。祖父はフランス語教師、母は一時英語を教えていた。これも”勉強”ではなく、”手段”であったがゆえに身についたものだったのだ。

そうである。村上氏にとっての”英語”、内田氏にとっての”フランス語”が自分にとっては”日本語”であったのだ。

もちろん、日本で生まれ育った身、日本語はしゃべっている(日本人です)。だが、しゃべりと読書きは、元来別の行為だ。あまりにそれが日々の生活で一体化しているがゆえに、そう意識することは、あるいは一生ないかもしれない。

だが、考えてみると、しゃべること、に文字は不要だ。文盲であっても、会話は勿論できるのだ。

村上氏が英語でペーパーバックを読んだように、内田氏がフランス語でレヴィナスを読んだように、僕は日本語で翻訳ファンタジーを読み漁ったのだ。

自らが一番取りこみたいものを、それができる手段で行う。

当たり前なのだが、そういうことに、なるのだろう。

後にフランス語教師となった後で内田氏はフランスに留学したという。当然最上級のクラスに入るが、氏はしゃべる能力を上げることに興味が無かったため、教師にそういうと教師が激怒した、という。

マザータング、である言語話者は、そうではない話者より永久に上の立場にいる。

こう指摘した内田氏の言に、蒙を啓かれた。これは例えば同一言語となれる日本語でも、同じ構図となりうる。つまり関西弁マザータングの人は、そうではない人より、一生関西弁に関しては上である(という意識を自身が持っている)。

同じ言語の方言であれば、別の方言間での議論は可能であるが(自身は気持ち悪いので標準語でやりますが)、外国語であれば、その差が決定的であり、基本的に議論はすべて、マザータング話者が勝利する。

であれば、英語でしゃべり、英語で語ること、別に英語に限らず外国語でしゃべり語ること、では、いつまでたっても、”名誉白人”から脱却できないのだ。与えられた、特権。特権ではあるが、”生来のものではない”。

時代と文化の変化、というものが、その時代の人間を形作る。

当たり前なのだが、自身もその中の一員でもあるだけに、見えにくいものでもある。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」 僕が大学生のころ、偶然に知り合ったある作家は僕に向かってそういった。僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少なくともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧な文章なんて存在しない、と。
村上春樹 風の歌を聴け
過去を振り返る時、自分のことを「あの少女」と呼ぶことになる。叔母はそういう予言を与えた。そのとき彼女はまだ生きていて、だから今はもういない。親族中を三代さかのぼっても見つからない癌だった。これは、人どもが様々な意味で頻々と出入りしている特別病室で姪に最期の言葉を告げようという時、他の親族を冷え冷えとした廊下に追いやらざるを得なかった二人の関係にまつわる記述である。
乗代雄介 十七八より

時代が違うが、最近読んだ群像文学賞の2作の書き出しを引いてみた。どちらも、静かに秘めた力を感じる文章である。プロローグ、という感がある。予感めいたものが、生まれる。

(いつも思いますが、読むのと、書き写すのとでは全く受ける印象が変わりますね。読み間違えや読み飛ばしも多い。)


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