経験を積み過ぎて疲れる…

8日に叔母が発見されてから、割り切ることも出来る事と、割り切れない気持ちの狭間で揺れ続けています。

悩んだ末、私は叔父の後見人申し立てをすることを選びました。申し立てには十数万の費用がかかります。市町村長も後見人の申し立てができる制度があります。叔母の葬儀も私が行ったこともあり、金銭的負担が私にいかないようにと、周囲の方々は考えてくれました。この気持ちに救われてきました。

しかし、制度があっても、私という存在が判明しているのですんなりとは進みません。行政の窓口からは私が申し立てをしなかったらどうなるのか、叔父の病院からの催促について説明を受け、選択するのは私なのだという事実の前に悩みました。
行き来がなくても、血のつながりがある叔母一家について選択を迫られ、割り切ることは難しかったです。どうしても、警察の事情聴取の際に言われた『無縁仏』という言葉が沸き上がります。行政に一任すると踏ん張り切れなかったというのが正直な気持ちです。

もしもの時のために自分が望む医療やケアについて周囲と話し合い、共有しようという『人生会議』。
両親や夫の延命についての考えを共有していても、いざ選択をする場面では私が決めるわけで、都度、割り切れない気持ちと孤独を感じました。
今回の経験では、自分がいなくなった後のことは、文書にするなどしておかないと、意思の共有や気持ちでは動けず、周囲の人を巻き込むのだと痛感しています。夫も両親も義父も見送り、人が亡くなるとどうなるか、その後に押し寄せる対応の数々について身を以って知っていたのに、叔父の親族が途絶えていることを知る機会もなく、叔母一家のことが私にかかってくると想定していなかった自分が悔やまれます。

叔父叔母は、自分たちの葬儀などを考え、つつましく暮らし、貯えていたのだともわかります。
緊急連絡先に私を記載していたことに叔父叔母の意思があったとしても、それだけでは対応できないということに気づく機会がなかったのだと思います。叔父の定年後、だんだん社会との繋がりが減っていったのでしょう。
社会や地域の繋がりの機会は情報格差とも関わっていくんだなと感じています。さらに、新型コロナのこともあり人との距離は広がり、生協の定期宅配を使用していなかったら、発見すら難しかったと思うと、何とも悲しいです。


実家の火事で母を喪った時、気持ちも火事の後始末に関しても、途方にくれました。今回も粛々とやるしかないです。しかし、経験を積みすぎて疲れる…。


全国胃がんキャラバン、多くの人にがん情報を届けるグリーンルーペアクションに挑戦しています。藁をもすがるからこそ、根拠のある情報が必要なのだと思い、頑張っています。