003: 水曜日 @ replika

水曜日が、ほんとうに、きらい。歯を磨きながらゆり子は思う。

月曜は新しいスタートだ、と意気込むことができる。週の終わりに怠けてしまっても、何か上手くいかなくても、月曜にリセットすればよい。

火曜は月曜の余韻を引きずって頑張ればなんとなくすぎていくのだ。

でも水曜は。ペッ、と歯磨き粉をシンクに吐き出しながら考える。水曜は始まりの引き締まった気持ちも終わりの安心感もない、ただの曇った通過点でしかない。大学の授業は木曜で終わりだし、週末は課題にあくせく取り組むのだから特に水曜が峠だ!というわけでもない。ただ、水曜日という概念がどうしても受け入れられない。

朝、法哲学の講義を1時間半。いつもすこし着崩れたスーツがとてもよく似合う、ただ頭がいいだけでなく人間として賢く美しい心を持っているのだろうなと思わせる、美しい言葉を遣って話し、書く教授。いつだって内容は面白く、どの授業も最前列で受けるゆり子とはいえ、この講義はとくに前のめりの姿勢で聴く。それでもやはり水曜はきらいだけどな。目の前のスクリーンに日付を打ち込みながら心の中で毎週のとおり呟く。

哲学の道をこのまま進むつもりなど少しもない。院では、法律を、学ぶ。法律家になって、弁護士になって、完全に立場的にも経済的にも自分を擁護できるところまで登り詰めるのが目標。もっといえば、そうして両親と縁を切るのが目標。恨んでいる。恨めしい。それを否定する気など更々にない。ゆり子は自分が望まれて生まれてきた命ではないことを重々に知っていたし、何より彼女にそれを知らしめたのは両親であった。父親の家庭に行けば「浮気相手の子」として父親の嫁に妬まれ疎まれる。独身で若い母親には、ゆり子さえいなければ自由の身だったと、あらゆる場面で冷たい眼差しを向けられる。人間はとことん愚かだ。目の前できらきらと講義という名の演劇を繰り広げるこの教授でさえ、結局は単なる人間 ー もっと言うなら、単なる男。きっとどこかの誰かを落胆させているに違いないんだ。

「ゆりちゃんは賢いよね、いいな。」「ゆりは高嶺の花でしかないからさ、いつもひとりだしね、手が届かない。」なんのために勉強に喰らいついてると思ってるんだ。高嶺の花も何も、他人に無駄に時間を割くひまなどわたしにはない。それが、ゆり子だった。四肢は細く長く、やわらかい黒髪がくるくると腰の下まで伸び、真っ白に透きとおる肌が内面とは対照的な儚い印象を醸し出す、ゆり子。いつも古着屋で見つけたいたずら小僧のような服装を身にまとうゆり子。誰にとってもいろいろな意味で近づき難い存在であった。

講義が終わる。ゆり子は完璧といえるほど細かいノートをとり終え、教授に一礼し、教室の外に、そして建物の外に出る。風に雨の匂いが交じっていた。今日は授業これだけだしな、セミナーの論文でも進めるか、と心の中で呟く。傘は持っていない。だからこそ、ちょっと遠くのあのカフェまで歩こう。水曜日だもの、せめてお洒落な場所でまともなコーヒーでも飲まなければやっていられん。

道を、コツコツと歩く。遣る瀬ないなあ、と、灰色が濃くなってゆく空を見上げる。遣る瀬ない。15分ほど歩いたところで雨が降りだした。ゆり子の心の中をまるで映し出しているようで完璧だ。

残りの10分を雨の中歩き切ると、いつもの街角で、いつも通り、四角く建っているレプリカ。扉を開き、いつもの席が空いているのを確認するとまっすぐそこに歩く。ゆり子は例外が好きではなかった。いつもと違う何かがあるだけで、自分にはコントロールできない物が日常を乱すため転がり込んできた気になり落ち着かないのである。
濡れた肩と髪を少しだけ手で払い、財布だけ持ってカウンターへ歩み寄る。ゆり子より気怠そうな若い店員にコーヒーとブラウニーを注文し、席へ戻ろうと振り返ると、反対側の壁際のカウンター席に見慣れた背中を見つけた。現代哲学のクラスでいつも隣に座るくせに全くもって愛想の良くない、静かなクラスメイトだった。壁に貼ってある鏡越しに目があった。手を振ってみると、彼女は振り返って、「どうも」と口パクで言う。せっかくだし、と話しかけに向かってくるゆり子を見て、律儀に背の高いカウンター席から立ち上がってくれた。立ち上がる、というよりは降りてきた、という方が正しいのかと考えてしまうくらい彼女は背が低かった。
「ゆり子ちゃんだよね、何してるの?」教室では全くもって他人に無関心の彼女がゆり子の名前を知っていたことも、にこにこと口を開いたことにも驚いた。
「たまにここに来るの、大学からちょっと遠いでしょ、気分転換。」
「わたしなんてほぼ毎日ここだよ、この通りをずっと歩いたところに住んでるの。何書いてるの?」彼女はゆり子の席に目をやりながら尋ねる。席にリュックとパソコンを置いているだけで論文を書く前提で話が始まるところがさすがに哲学科の生徒である。
「現象学のセミナー。長いんだよね論文。」
「あらその授業とってるの羨ましい!結局スケジュール合わなくて諦めたんだよね。」
ー よく、しゃべるなあ。
「話しかけてくれて嬉しかった、わたし授業で自分から人に話しかけられないんだよね、講義聴くので手一杯だし、疲れててコミュニケーションとるエネルギーいつも残ってないし… でもゆりちゃんかわいいなっていつも見ていたの。」
ー かわいいのは君だ。
話せば話すほど共通点ばかりだった。人間に対して主に諦めの姿勢と悲壮感をもって生きているところ。なかなかに責任感のない情けない大人ぶった子どもたちに育てられたところ。混ざり合った文化を背負って生きていて、どこにいっても完全には馴染めないままなところ。友達になりたい、というよりは、友達だったことに気づいた、という表現のほうがしっくり来そうなほど、懐かしい感情で普段は表に出さないことまで話している自分に気づき、ゆり子は少し照れくさい気持ちになる。

水曜日の嫌いなゆり子は、この水曜日が少しだけ特別な水曜日になったことに気がついて微笑んだ。友情にしろ恋愛関係にしろ、誰かと何かを築き上げることは怖い。失う可能性が必ず伴うこと、そのコントロールをするのが完全に自分だけでないこと、自分を見失うかもしれないこと、全てが怖い。それでもなんとなく、何かが始まった気がすることが純粋に嬉しかった。帰り道は、きっといつもより心が軽い。きっといつもより雨空が愛おしい。

「わたし家近いから気にしないで!次の授業ででも返してくれたらいいから。」そう言って、まわりまわって出来たばかりの「友達」が貸してくれた黄色くて大きな傘を握り締めながら、ゆり子はレプリカのドアをからん、とベルを鳴らし開いた。

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