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たばこ(4)


 佐原と酒を飲みかわすようになって、10カ月の月日が流れた。
 部屋には、リユースショップで買った安い布団のセットと、銀色の灰皿が増え、常に酒瓶と水が常備されるようになった。シャンプー・リンスや洗顔料は、いつのまにか佐原の好きなブランドのものに変わっていたし、佐原のヘアワックスや歯ブラシは、当然のように洗面所を占領するようになっていた。
 佐原は時間にルーズで、いつも授業や友達との約束に遅れてばかりいたから、時計の時間は5分早めた。結局、佐原も5分早いことを知っているから、あんまり意味はないけれど。
 佐原がくるのは、翌日が一限の日と、学校付近で飲んでいて終電が間に合わなくなったとき。週に1,2回の頻度で僕の家にやってくる。
 今期の時間割だと、佐原が一限の日は水曜日。だから火曜日の夜に泊まりに来るのは、今は暗黙の了解になっている。
 僕はもう、テニスサークルにはいかなくなったけど、佐原はイベント要員として、いまだに出入りしているようだった。火曜はテニスサークルがある日だから、たまに飲み会に参加して、夜遅くに僕の家にくることもある。
 僕は何もない日は、だいたい0時か13時くらいに寝るので、「泊まりに来る日は23時半までに連絡を入れること」がふたりの間の取り決めだった。終電をなくして帰れなくなるであろうときも、その時間までには必ず佐原は連絡をいれてくれた。

 佐原と出会ったあの日以来、僕は一度もたばこは吸っていない。佐原と買ったたばこは、引き出しの奥にしまってある。
 僕は匂いに敏感で、どうしてもたばこの匂いを体内に取り込むことができない。はっきりとは言わなかったが、佐原もそのことは察してくれているようで、絶対に家の中ではタバコを吸わない。どうしても我慢できなくなったときは、灰皿をもってベランダに吸いに行く。
 僕は、夜風にあたりながら、その背中を眺めるのが好きだった。
 佐原の好きなたばこの銘柄は、マルボロ・ブラックメンソール。煙の匂いに混ざって、さわやかなグリーンガムみたいな匂いがする。僕はその匂いを嗅ぐと、胸がきゅっと苦しくなる。同じたばこを吸っている人に会うだけで、佐原の匂いだ、と思ってしまう自分が嫌だった。

 佐原は、僕を「ナオ」と呼ぶ。漢字の「尚」じゃなくて、もっとフランクなカタカナの「ナオ」。
 佐原の、優しく「ナオ」と呼ぶ声が好きだ。大人びて整った顔立ちをしてるのに、八重歯だけが幼くて、少しガチャッとして見えるのも。たばこを吸うとき、しゅっとした顎に大きな骨ばった手を当てるしぐさも、全部好きだ。

 それが恋なのかもしれないと自覚したのは、いつだっただろう。
 佐原は、彼女をとっかえひっかえしていて、だいたい二か月くらいのスパンで移り変わっていっていた。俺と知り合って以降、彼女はすでに4回変わっていて、今が5人目だ。実は何人か、彼女がかぶっていた時期もあるのを知っている。僕にはよくわからないけど、彼女ではない体だけの関係の人も、常にいるらしいことは知っていた。
 佐原は、彼女と別れた時と新しい彼女ができたときは、とりあえず報告してくれる。けれど、すべては話してはくれない。交際経験ゼロの僕なんかじゃ、聞き役としては力不足なのだろうかとも思うが、深く聞けずに黙り込んでしまう自分にも非があるとわかっていた。

 僕は、佐原の恋愛事情を知りたくなかった。どんな女と付き合って、どんなふうに体を重ねるのか。きっと、知れば知るほど苦しくなる。僕は、どうあがいても女にはなれない。佐原の恋愛対象には入らない。
 佐原に女のかげが見え隠れするたび、心の奥に潜んでいる嫉妬心を、見過ごすことができなくなっていった。

「なんでそんな女取っ替え引っ替えしてんの」
 佐原が3番目の彼女と別れたとき、僕はそう聞いてみた。
 佐原は、僕からそんな話が振られたことに、少なからず驚いていたようだった。
「なんでって言われてもなあ。べつに別れたくて別れてるわけじゃねえよ?」
「そうは言っても、普通、一人の女の人が忘れられないとかあるじゃん。そんな簡単に次とかいけんの?」
 まるで自分に交際経験があるかのように、知ったかぶって話してしまったことが恥ずかしくなり、アルコールの力を借りようと手元のビールを一気に飲み干した。
「ナオって、童貞?」
 佐原が軽い口調で聞いた。表情を見るに、冗談やからかいの類いではなく、純粋な投げかけのようだった。
 食道をビールが滑り落ちていくのがわかる。まるで焼けるように熱い。食道だけでなく、自分の顔も熱をもっているのがわかり、僕はうつむいた。
「あー、ごめんごめん、今のは俺が悪い」
 佐原が、少し焦り交じりの笑いを浮かべた。僕は、なおさら恥ずかしくなって、机の上につっぷした。
「ナオとはそういう話しねえもんなぁ。気持ちから始まる恋愛は、確かに最近してないかも。その前に体の関係になるのが多いな。セフレもいま何人かいるし。みんな、俺がフリーになるのをスタンばってて、狙って声かけてくるんだよな」
「セフレって、その、」
「セックスフレンド」
 佐原が、僕の曖昧な言葉尻に重ねるように言う。
 つまりは、体の関係をもっている女の友達のことだろうと思う。
 ああ、やっぱりきかなければよかった。佐原の性生活が乱れてることなんて、わざわざ聞かなくてもわかっていたことなのに。
「恋人との違いってなに」
「俺もよくわかんねーんだよな。ただ、恋人は1人じゃん? でもセフレは別に何人いてもいいじゃん。そういう違いかな。恋人は、友達以上になってもいいかなって思える子の中から、今一番優先したい人を決めてるって感じ」
「ちょっと何言ってるかわかんない」
 僕がふてくされたような声でいうと、佐原は笑った。
「よく言われる。たぶん、俺がズレてんだよ」
 グラスに酒を注ぐ音がし、少し視線を上げる。佐原は一口飲んで言った。
「俺って、酔えねえの。だから、酔える人間がうらやましい」
「なんの話? 酒?」
「酒も女もタバコも全部。雰囲気に酔ってみたくてはじめた。でも、全部微妙だった。完全に酔いきれたためしがない」
 佐原は頬づえをつき、僕ではない少し奥の壁のあたりをぼうっと見つめていた。

 そういえば、佐原と初めて話した時もそうだっけ。
 佐原はひとり店を出て、たばこを吸いながら「カラオケが嫌い」とつまんなそうに言った。それで、俺なんかの誘いにのってたばこを買って、僕の家で2人で酒を飲んだ。
 佐原にとって重要なのは、酔えるか酔えないかなんだ。みんなでカラオケで騒ぐより、僕と一緒にいる方が酔えるかもしれないと思ってくれたのだ。
 そのことに気が付き、うれしさが沸き上がると同時に、不安が募った。
 本当に佐原は、僕なんかといて酔うことができるんだろうか。今に、やっぱりつまらないなと気づいて、何も言わずに去っていくんじゃないだろうか。

 そのあと、僕はいつものように記憶をなくしていて、翌朝ベッドの上で目を覚ました。


→たばこ(5)へ続く

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