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【短編】夜のゲレンデ

まえがき

【ノスタルジー】をテーマにしたの短編の一作目になります。
片手間にパパっと読めるくらいの長さを目指してましたが、一万字をこえてしまいました。お暇な方どうぞ。
後半のほんのワンシーンを形にしたくて書き始めたのですが、ストーリーをのせると、どんどんと文章量が膨れ上がっていった感じです。
私の中のノスタルジーやエモな感情をいっぱいに詰め込んだ作品になっています。書くのは超超楽しかったです!!!(笑)


 中学の県大会を目前にして、「ひらのスキー場」は、高校のインターハイのコース整備のために一時封鎖となった。

スキー場の管理棟に張り出された「クロカンコース封鎖のお知らせ」という貼り紙を見ながら、莉子は「まぁしょうがないんじゃない?」と笑う。

 エンジン音が近づいてきて、マイクロバスが管理棟前に停車した。運転席のドアが開く。

「おーい、中学生早く乗れー!」

 高校の部活顧問の武田先生が顔を出した。

 莉子と私は、荷物を抱えてマイクロバスの方まで駆けていく。

 すみません、と頭を下げて車内に乗り込むと、余っている補助席に座る。ウインドブレーカーを着た高校生たちはみな、全身から疲労感をにじませている。肩身の狭い思いで身を縮め、ぎゅっと荷物を抱え込んだ。

私たちは、クロスカントリースキー部――俗に言う〝走るスキー〟の部活に所属している。スキーというと、大抵の人が思い浮かべるのは、リフトやゴンドラでゲレンデを上がり、斜面を下るのみの〝アルペンスキー〟だ。けれどクロスカントリースキーは違う。上り下りのある林間コースを滑走する競技だ。

 部員は私と莉子の二人だけ。冬季期間のみ発足するこの部活には、スキー場へ行くための交通手段も、スキー用具も、ワクシングルームも与えられてはいない。すべて、附属の高校のクロスカントリー部のおこぼれをもらってなんとか活動している。

 コーチや監督もついておらず、私たちはいつも二人で考えたメニューでトレーニングを続けている。顧問はいるが名ばかりで、大会に出場する際にたまに顔を出してくれる程度だ。

 いわゆる弱小校。当然、コーチや監督がついて指導してもらえるような学校の選手に、実力で敵うはずもない。


 マイクロバスで山を下り、高校前の駐車場につくと、武田先生から話があった。

 来週1週間は、ゲレンデ封鎖のため部活動は休止。その話が出た瞬間、高校生たちは嬉しさを堪えきれない表情で、部員どうし顔を見合わせていた。

 高校で一番大きな大会であるインターハイはまだニヶ月後で、差し迫った大会もないと聞く。高校生たちは、私たちとは比べ物にならないほど毎日厳しいトレーニングメニューをこなしているから、少しの休養は必要なのかもしれない。

 高校生へ向けた話が終わり、武田先生は、莉子と私だけはその場に残るようにと言った。高校生たちが部室へと引っ込んでいく中、武田先生が私たちをちょいちょいと手招きする。

「君たち中学生は再来週、県大会だろう? 練習させたいのは山々だが、君たちのためだけにわざわざ遠いスキー場までバスを出すこともできんくてな。誰かOBやOGでツテはありそうか?」

 私と莉子は、揃ってかぶりを振る。そうか、と武田先生は難しい顔をして腕を組んだ。「練習は諦めてほしい」と暗に言いたいのだろうと感じた。武田先生は、尖らない言葉選びを真剣に考えてくれているようだった。

 重たい空気が漂い、莉子はあの、と小さく声を上げた。

「とりあえず親に送迎を頼んでみようと思います。もしそれで無理なら……諦めるしかないかなって」

 武田先生は、莉子に対して大きく頷いた後、私の方を見た。慌てて「私もそう思います」と言葉を添えた。

 武田先生は、すまんな、と寂しそうな笑みを残して、高校の校舎の中へと消えていった。

 ひた、と冷たいものが頬に落ちてくる。見上げると、遥か上空から細かな雪がひらひらと舞い降りてきていた。

「あのさ、舞菜」

 莉子は私の袖を引き、「勝手に答えちゃってごめんね」と私の方を見ずに言った。

「ううん、むしろありがとう。他にどうしようもないしさ」

「でも私んち、遠いスキー場まで送り迎えなんてできないと思う。うち、親はママしかいないし、夜中まで仕事忙しそうだし……それに、部活にもあんまり協力的じゃないし」

 莉子はちらりと控えめな視線を向けてくる。

「でも舞菜んちのパパは元スキーヤーなんだよね? 部活にも理解ありそうだし、頼んだらスキー場まで送迎してくれたりしないかな」

 莉子の大きな瞳に見つめられ、少し言葉に詰まった。

 確かに父は元スキーヤーだ。学生時代はクロスカントリースキーの選手だった。莉子にそのことを直接話したことはないけれど、クロスカントリースキーの競技人口なんてたかが知れてるから、知らない間にOBやOGの情報は共有されていたりする。

「うん、ちょっと頼んでみるね」

 私は、内に生まれた苦い思いを押し殺して、つとめて明るい声で答えた。

 変に間をあけちゃったかな。うまく笑えてたかな。埒のあかないことを悶々と考えながら、エナメルバッグを担いで家路をたどった。

 降る雪が、少しずつ大きくなり始めていた。空気を含んだ雪はふわふわと舞い、視界を真っ白に埋めていく。傘にどっしりと重みを感じながら、今晩は積もるな、と思う。

 ブーツの裏にこびりついた雪を振り払い、玄関を開ける。なんだか今は、父の顔を見たくない気分だった。頼んでみるね、と言った矢先、既に引き受けたことを後悔していた。

 父は、きっと仕事の後でも喜んでスキー場まで送迎してくれるだろう。私は、ひらの以外のクロカン場なんて知らないけれど、父ならばいろんな場所を知っている。どこのスキー場が近いとか、それなら何時に家を出たらいいとか、何も言わずとも段取りまですべて済ませてくれるだろうと思った。

 でも、父を頼りたくはない。莉子に、父の姿を見られたくないのだ。

 私が生まれたのは両親が四十の時だった。周りの子の親よりも十は年上で、小学生の時、そのことを同級生にからかわれて以来、両親には、学校行事を見に来ても私には絶対声をかけないで、と釘を刺すようになった。スキーの大会にも密かに応援しに来てくれているのは知っていたけれど、遠くから私を見守って、何も言わずに帰ってくれている。そして、家に帰ればお疲れ様の気持ちを込めて、美味しいご飯を作って待ってくれているのだ。

 両親が、そんな私の態度を寂しく思っているのはわかっているし、申し訳ない気持ちもある。けれど私にだって、張りたい見栄の一つや二つはある。

 しかも、莉子のお母さんは若くて綺麗だ。実際の年齢は知らないけれど、授業参観でちらりと顔を見た時、まだ二十代なんじゃないかと疑うほど若々しい印象を受けた。個人でファッションデザイナーの仕事をやっているらしく、農家の育ちで地味な公務員のうちの両親とは、比べ物にならないほどに華やかだった。

 莉子は、私の父親を見てどう思うだろう。何か棘のあることを言ったり、無神経な態度をとるような子ではないけれど、少しでも、歳食ってるな、とか、田舎くさいな、とか思われたりしたら嫌だ。たとえ思ってなくても、思っていそうだなんて勘繰る自分が嫌だった。

 リビングにはすでに、父と母の姿があった。帰宅してすでに父の姿があるのは珍しい。

 ぼんやりとテレビの前に立ち尽くしていた父が振り返る。

「あぁ、おかえり」

 父もおそらく帰ったばかりなのだろう、白髪混じりの薄い髪の上には、わずかに雪が積もっている。

「ただいま。お父さん今日早いね」

「さすがに、いつも残ってばかりじゃいかんと思ってな」

 父は小学校教諭だ。確か今は、山の中にぽつんと立つ小さな学校に勤めている。六年生の担任らしいが、今年の卒業生は十人にも満たないらしい。

 父はくすんだ臙脂色のフリースを脱いで、ハンガーにかける。中からは、緑と紫の幾何学模様のトレーナーが現れた。父は、私が物心ついた時からずっとそのトレーナーを着ている。古臭くて恥ずかしいから外には着ていかないでほしいと言ったことがあるけれど、父は「いいじゃないか」と笑うだけだった。父はファッションにはまるで無頓着で、ダサいとか、センスないとか、その手の言葉をぶつけても暖簾に腕押しなのだ。

 父は、なにやらカバンの中から引っ張り出してきて、食卓の上に置いた。

「そういえばこれ、うちの学年主任からもらったんだ。出張ついでのみやげらしい」

 小瓶だった。ラベルには「カニミソ」と書かれている。キッチンから出てきた母が、エプロンで手を拭きながら、その瓶をまじまじと見る。

「あら、どこのおみやげ?」

「新潟」

「いいわね。酒の肴にでもしたら?」

「そのつもりだよ、ビールは?」

「その前に夕食でしょ」

 ぼんやりと、食卓の上のカニミソの瓶を見つめる。なんで、貰ってくるお土産までそんなにダサいの。

 ふてくされて、椅子の上で膝を抱えた。ポケットの中の携帯が震え、ロック画面を見る。送信者は莉子だ。

『舞菜、家着いた?』

『どう?パパに聞いてみた?』

 二つ続けて届いたメッセージを見て、ため息をつく。言い訳をこねくり回して頼みを断るより、さっさと父に伝えてしまった方が早そうだ。もういいや、莉子にどう思われたって。

「お父さん」

 私が呼ぶと、父はおでこにあげていたメガネをおろして、私を見た。

 言いたいことは喉元まで出掛かっているのに、うまく言葉にできない。口にしようとすると、なぜか心が抵抗して、ぐいぐいと足を引っ張ってくるのだ。

 私はまた膝の間に顔を埋め、ぐらぐらと体を前後に揺らしながら、ようやく話を切り出せた。

「今週、いつでもいいんだけどさ、夜とか空いてたりしない?」

 なんだか、拗ねた子供みたいな口調になった。そんな自分が恥ずかしくて、どんどん考えがまとまらなくなっていく。

「曖昧な言い方だな。どっかに連れて行って欲しいのか?」

「再来週、クロカンの県大会あるじゃん? その、スキーの練習したくて。スキー場まで連れてってほしいなー、なんて」

 言葉が尻すぼみになった。ちらりと顔を上げると、父さんは目を丸くして、じっと私を見ていた。

「すごいな。部活後に練習したいのか?」

「その、ひらのスキー場、インターハイのコース整備で来週使えないんだって。だから、高校の部活も休みになるの。別のスキー場まで連れてってもらえないかなー、みたいな」

 体ぐらぐらの代わりに、私はいつのまにか右足が貧乏ゆすりを始めていた。

「そうかそうか。熱心だな、えらいぞ」

 父は腕組みをして、何度もうんうんと頷いた。

 えらいぞ。父さんのその言葉が脳内に反響して、なんだかまた恥ずかしさが込み上げてきた。

「でも俺の仕事が終わってからだろ? ちょっと厳しいんじゃないかな。他のスキー場はかなり遠いぞ。近いとこでも往復三時間はかかる」

 貧乏ゆすりが、ピタッと止まる。口の端が少し緩んだ。「じゃあ、無理かな」とダメ押しで聞いてみる。

「そうだなあ、そもそもそんな夜中にクロカンのスキー場はあいとらんしな」

 キッパリと言い切られて、心の中でガッツポーズをした。これで莉子に言い訳ができる。練習ができないことは残念だけど、この際しょうがない。だってそもそも無理なんだから。心が一気に軽くなったのを感じた。

「じゃ、莉子に無理って言お」

 私はポッケから携帯を取り出して、いそいそとメッセージアプリを開いた。

「莉子ちゃんも行くのか?」

 父が訊く。私はフリック入力で文字を手早く打ち込みながら「うん、そのつもりだったけど」と軽く答えた。

「いや、待て」

 父の真剣な声がした。思わず手を止め、顔を上げる。

「無理なこともないぞ。お父さんにツテがある」

「誰かに送り迎え頼んでくれるってこと?」

 父は私の問いには答えず、ニヤリと笑みを寄越した。そして「まぁ待て」と言い残して、廊下で電話をかけ始めた。数分経って、父はリビングに戻ってくる。

「明日、早速どうだ? 俺がゲレンデに連れてってやる」

「お父さんが?」

「そうだ。驚くなよ、特別に貸切ナイターだ」

 父の得意げな表情を見て、私は何も言えなくなった。

 父は、友達との約束に自分を頼ってくれたことがよほど嬉しかったに違いない。明日は定時にすぐ帰るからな、と張り切って早速予定を立て始めた。

 その夜、布団の中に潜り込んでから、莉子に返信した。

『スキー場の話、お父さんにしたよ』

『明日どう? 夕方六時半に莉子んちに車で迎えにいく。いける?』

 莉子と同じように、ニつ続けてメッセージを送る。すぐに既読がついて、返事が返ってきた。

『いける! ありがとう舞菜!』

 メッセージに続いて、スタンプが送られてきた。トークルームの中で、ウサギのキャラクターがダンスを踊っている。

 私の抱える悩みなんてお構いなしに、事は順調に運ばれていく。

 なるようになれ。蛍光灯からぶら下がる紐を引っ張り、私は目を閉じた。


 翌朝のニュースでは、キャスターが「今日は全国的に晴天」だと予報していた。玄関を開け、深呼吸したときの澄んだ空気と、突き抜けるような空の青さで、お天道様の機嫌がいいことはすぐにわかった。きっと、溜まっていた鬱憤は昨日のうちに全て吐き出してしまったのだろう。一晩かけて降り積もった雪は、膝丈までになっていた。

 夕方六時半、莉子はスキーケースを抱き抱て玄関の前に立っていた。ウインドブレーカーを着こんで、クロカン用の帽子をぴっちりと被り、すでに競技用の手袋まではめている。

 父が路肩にジムニーを止める。私が助手席から降りると、莉子はネックウォーマーに顔をうずめ、ほくほくとした表情で駆け寄ってきた。

「すごーい、車の上に棺桶みたいのついてる」

 莉子は、ジムニーの屋根にくっついているボックスを見上げて言った。

「棺桶ってなんだい?」

 運転席の扉が開いて、にょきりと父が顔を出した。莉子は、目を輝かせて指をさす。

「これです、上に乗ってる」

「あぁ、これはルーフボックスって言ってね、中にスキーとかも入れられるんだよ。スキーケースかしてごらん」

 父は莉子からケースを受け取ると、ボックスのふたをぱかりと開いて、中に押し込んだ。既にボックスの中には、私のスキーケースも詰まっている。

「舞菜のパパ、すっごく優しそうな人だね」

 莉子が私に耳打ちする。そうかな、と小さく答えた。

 今日の父の服装は私が選んだ。タンスの中からマシそうな服を選び抜いて、「これを着て」と押し付つけたのだ。見た目のおじさん臭さだけはどうしようもないけれど、いつもの臙脂色のフリースや、幾何学模様のトレーナーみたいなのは、絶対に着てほしくなかった。

 私は助手席のシートを倒し、莉子を後部座席に送り込む。莉子は2ドアの車は初めてらしく、後ろの小さな窓から外を覗き込み、楽しそうにはしゃいでいた。

 父がエンジンをかけなおし、オーディオの画面が光る。瞬間、昭和の歌謡曲が流れ出した。ボーカルが第一声を発する前に、私は急いで最近のヒットチャートのプレイリストに変えた。以前に私がCDを作り、勝手に車のオーディオに読み込ませたプレイリストだった。

「これ、今やってるドラマの曲じゃない?」

 莉子は、後ろの座席から身を乗り出して言った。「うん、そうだよ」と答えた声は、どこか弱々しくなった。

「へぇ、すごいね舞菜のパパ、こんなのも聞くんだあ。うちのママなんて全然音楽に興味ないのに。最近の曲なんて全然知らないよ」

 すごいね。莉子の純粋な言葉に、かっと頬が熱くなる。

 だって私がいれたプレイリストだもんって笑って返せばいいだけなのに、それすらもできない。父は隣で、何も聞かないふりをしてくれているのだろう、そんな優しさが胸にチクリと刺さった。

 市街地を抜け、車は山中に吸い込まれていく。これから行く先は知らないが、ずっと見知った道を辿っているような気がした。

 トンネルを三つ抜けた先、大きな橋の上に出ると、視界がパッと開けた。両脇を遮る木々が消え、夕日がダイレクトに飛び込んでくる。広い川を渡り切ると二叉の分岐が現れ、父は「ひらのスキー場」の看板がある方へとハンドルを切った。

「お父さん、ここいつものスキー場じゃん」

 私が不安げな視線を向けると、父は表情を変えず、まっすぐ前を見て言う。

「そうだよ。でも今日は、アルペン側のゲレンデを貸してもらうんだ。いつものクロカンの林間コースから、アルペンのゲレンデが繋がっているのは知ってるだろう?」

 それを聞いて莉子は、運転席の助手席の間にずいと顔を突き出してきた。

「でも、ひらののアルペン場って、ずっと前に閉鎖しちゃったって聞きましたけど」

「ああ。でも近々またオープンするらしいんだ。だから今日は、公式オープン前の特別待遇だ。映画公開前の試写会みたいなもんだな」

 父が答える。アルペンのゲレンデなんかじゃ練習にならないんじゃないの、私がそう口にするよりも早く、莉子がきらきらと目を輝かせて言った。

「すごーい! 私、アルペンのゲレンデでクロカンなんてしたことないです!」

 莉子の言葉に、父は軽快に笑う。

「クロカンは雪と斜面さえあればどこでだってできるさ。アルペン側のゲレンデが封鎖される前は、クロカンの大会の長距離特設コースとして、アルペン場の一部を間借りしてたこともあるんだよ」

「すごーい、知らなかったー!」

 莉子の「すごい」はいつも温度が高い。言葉にならないほどのワクワクや高揚感をいっぱいに詰め込んで、色とりどりの「すごい」を使い分ける。

 莉子は、再び後部座席のシートに寄りかかると、車に流れるJ-POPのメロディを、小さく口ずさんでいた。

 スキー場に着くと、父は車の上のルーフボックスから二人分のスキーケースを下ろした。

 ジムニーのトランクを開け、二人で座ってスキー靴を履く。父は一足先にゲレンデに出ていき、どこか奥の方へと手を振った。すると、地鳴りのような低いモーター音を響かせながら、圧雪車が脇の林間コースからやってきた。ぴかぴかと光るランプに、巨大なキャタピラ。ひらののクロカン場を整備している圧雪車と同じだ。

圧雪車はゆっくりと父の目の前で止まり、運転席から、分厚いダウンジャケットを着込んだ中年のおじさんが降りてきた。そして、おじさんはしばらく父と話し込んだ後、スキー場の管理棟へと入っていった。

 父は、遠くからでもわかるくらい満面の笑みを浮かべながら、こちらへ戻ってきた。

「第一ゲレンデだけ、ライトアップしてくれるってさ。この一番下のリフトがある区間だけね」

「えー! ほんとですかー!」

 莉子は、履きかけのスキー靴がすっぽ抜けるんじゃないかというほど、勢いよく脚をばたつかせた。

「時間は八時までだよ。時間になったら勝手に消えるようになってるからね」

 父はそう言うと、ジムニーの運転席へと引っ込んでいった。シートを後ろに倒し、完全に眠る体勢に入っている。

 私たちは靴を履き、スキーとポールを小脇に抱えると、並んでゲレンデに向かった。

「舞菜のお父さんすごいね! スキー場の人とも知り合いなんて!」

 莉子は上機嫌にステップを踏みながら、私の方を振り返る。

 本当にすごいのは、この場をきっちり整備してくれたスキー場の人なのだけれど、自分の父親を褒められれば、やっぱり悪い気はしない。

 莉子があまりに、すごいすごいと手放しで喜んでくれるから、自分が抱えていた悩みなんて、とてもちっぽけなものだったかように思い始めていた。

 ゲレンデの両脇の照明に光が灯り、リフトの太い柱の影が、真っ白な地面の上に伸びる。

 スキー板をはめると、斜面をスケーティング走法で登り始めた。小さなカラーコーンを円い形にゲレンデに置くと、その周りを何周もぐるぐると回った。

 ひらののアルペン場は、やはりクロカン場に比べると、コースの幅が圧倒的に広い。見渡す限りの雪原には、圧雪車の出来立てホヤホヤのキャタピラの跡が、細かな縞模様となって刻まれている。その縞模様の表面をエッジで薄く削りながら、私たちはまっさらなゲレンデに逆ハの字のシュプールを幾重にも描いた。

 十本ダッシュを終えた後、ロッジの前でふたりで休憩をとった。火照った身体に、生暖かい空気の膜がまとわりつく。ネックウォーマーを下げると、涼しい空気がすっと首元に入り込んだ。

地面にお尻をつけ、無言のままゲレンデを眺める。ゲレンデの端には、止まったままのリフトが寂しげにたたずみ、煌々と照らされる第一ゲレンデの奥には、深い夜の闇が広がっていた。

斜面を滑走しているときは、ゲレンデ全体が白く発光しているように見えるけれど、下界からゲレンデを見れば、ぽつりぽつりと光が点在しているようにしか見えない。今、私たちの貸し切りゲレンデは、遠く離れた場所からはどんな風に見えるのだろう。

 ぼんやりとそんなことを考えていたとき、突然、バチッと大きな音が響き渡り、視界が真っ暗になった。照明がすべて消えたのだった。視界にこびりついたままの残光がゆっくりと薄れていき、あたりは本当の闇になった。

 空気がしんと立ちどまり、夜の帳が下りたのをようやく実感した。

「真っ暗になっちゃったね」

 私が笑いかけると、莉子は「ねぇ、上見て」と興奮冷めやらぬ様子で、私の肩を叩いた。

 私は言われるまま顔を上げ、息を呑んだ。

 星が瞬いていた。これまでに見たことのないほどくっきりとした大粒の星が、いくつも空に散りばめられていた。煙のように薄く広がった白い模様も、全て針の先ほどのこまかな星の粒なのだとわかる。

 空が迫ってくるみたいだ、と思う。この見渡す限りの広いゲレンデをも、夜空はすっぽりと包み込んでしまう。広大な闇が、私たちの頭上すれすれまで押し寄せてきている気がした。

「星、届きそう」

 莉子はそう言って、空へ向かって手をかざした。広げた手をぎゅっと握れば、星屑も掴めそうな気がする。

「ほんとだね」

 私は、ぐっと体温を込めて空へ向かって息を吐き出してみる。だが、夜闇は息の白さをもすぐさま取り込んでしまった。眼界に佇む光は、遠い星の瞬きだけだ。

 私たちが、声もないままに空を見上げていると、駐車場の方から父の声がした。

「おーい、時間だぞ。早く帰るぞ」

「あっ、舞菜パパ! 空見てくださいよ!」

 莉子が言う。父もゲレンデまでのそのそとやってくると、私たちの隣に並んで空を見上げた。

「あぁ、綺麗だなぁ」

 父は、深いため息を吐くように、しんみりと言った。

「あれは、オリオン座だなあ。その隣にくっついてんのが、冬の大三角だ」

 父の言葉に、「どれですか?」と莉子は訊く。

 父は、莉子の視線の高さに合わせてしゃがみこんで、空を指差した。

「ほら、あそこに砂時計のような形の星座があるだろう? あれがオリオン座。で、その左上がペテルギウス、そのさらに左がプロキオン、斜め右下がシリウスだ。その三つをつなぐと、冬の大三角になる」

「あ、わかった! 舞菜のパパ、星座に詳しいんですね」

「小学校で理科の先生してるからね。小学理科で習うくらいの季節の正座なら、全部頭に入ってるよ」

 父と莉子が楽しげに会話を交わす中、私は黙々とスキー板を外し、帰る支度を整えていた。荷物をひとつに束ねると、二人の声を背中に聞きながらゲレンデを後にした。

 私は、莉子に肩を叩かれて空を見上げた瞬間に、父が言っていたすべての星座の名前が手に取るようにわかった。間違いなくそれは、幼いころからの父の影響だった。

 たとえば、歩いて最寄りのスーパーまでいった帰り道には、父は夜空を指さし、あの天体は何か、あの星座はなにかと言う話をよく私に語って聞かせたし、七夕になれば、望遠鏡を押し入れの奥から引っ張り出して、一緒に天の川の星々を眺めたりした。

 オリオン座のペテルギウス、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオン。それら三つの星を繋いだ、冬の大三角。街の明かりにかすむ空でも、私は目を凝らしてそれらの星座を見つけられる。この澄んだ夜空の中でそれらを見つけるのは、いともたやすいことだった。

 まるで、私の方が知ってるよ、とでも言いたげな自分の気持ちに気がついて、胸の奥がじんわりと熱くなる。駐車場のコンクリートの上を、カツカツとスキー靴で踏み鳴らしてみるけれど、なんだか足元がふわふわとして、おぼつかない感じがした。

 ジムニーの助手席に乗り、父の真似をしてシートを倒してみる。中古のジムニーに染み付いたタバコ臭いにおいも、色あせたシートも、なんだか今は悪くないもののように思えた。

 遅れて、二人が車に戻ってきた。父は、莉子が後部座席についたのを確認し、車のエンジンをかけた。

 カーステレオからは、行きと同じヒットチャートのプレイリストが流れる。 

 車内に溢れていた帰り際の興奮は、少しずつ夜のしんとした空気に馴染んでゆき、やがて静かな走行音だけが残った。後部座席からは、すぅすぅと穏やかな寝息が聞こえてくる。

 父は車のオーディオ画面を操作し、いつもの昭和歌謡曲のプレイリストに変えた。『壊れかけのRadio』の文字が画面に映る。

 掠れた甘い歌声と、ほわほわと輪郭がぼやけるようなサウンドが、私の思考を溶かした。

 蛇行する山道の両端には、オレンジの灯りが点在し、流星のように視界の端を通り抜けていく。まるで、急加速する時空のトンネルの中で、車内にいる私たちの時間だけがゆっくりと流れているかのような感覚だった。

 シートにだらりと体を預けたまま、小さな声で「お父さん」と呼んでみる。ちらりと視線がこちらに向けられる気配があった。

「ありがとう」

 うわごとのようにふわりとした口調で言うと、父は息を抜くように小さく微笑んだ。運転席の窓がわずかに開き、車内に外の空気が流れ込む。そよそよと毛先が私の頬をくすぐった。

 私はすっと目を閉じる。まどろみのなか、わずかに父の鼻歌が聞こえた。瞼の裏にはまだ、満天の星空が瞬いていた。


あとがき

数日前に投稿しましたが、しばらく下書きに戻していました。
平日の三日間で一気に書き上げたのですが、どうにもふんぎりがつかなくて、ようやっと今日GOサインが出せました。
これからちょくちょくnoteのマガジンに作品を置いていく予定ですが、おそらくそれらも、気の向いたときに推敲して随時修正をかけていくような予感がしてます。
ということで、毎回あとがきには、掲載日と修正した日付を書いてと追記しておこうかな、と。誤字脱字などの軽微な修正は載せませんが。

▼掲載日・追記日
4/23 推敲して掲載。

10/9 コバルト短編小説新人賞用に文章を遂行し削ったバージョンに差し替え

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