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たばこ(2)


 ぼんやりと向かいの居酒屋の中でうごめく人たちを眺める。目の前を行きかう車の音を聞く。0時を超えてもなお、街はまだ動いている。
 ふいに後ろで自動ドアが開く気配がした。足音が僕のすぐ間近で止まった。
「ナオ、なにしてんの?」
 顔を上げると、そこには明るい茶髪の男がいた。左耳にはシルバーピアスが光っている。
 ――佐原樹。僕をこんな場違いな場所に連れ込んだ張本人だった。
 二次会のカラオケでは、部屋が別れたから、隣の部屋にいたはずだ。こいつはなんで親しくもないのに、僕を下の名前で呼ぶんだろう。
 黙って目をそらすと、佐原は僕の隣にしゃがみ込み、顔を覗き込んできた。突然パーソナルスペースを侵され、反射的に距離をとった。
「なんで避けんの」
 目力のある瞳に見つめられ、面食らう。
「や、その」
 僕がもたもたと答えを探している間に、佐原はポケットからタバコの箱を出していた。箱は深緑のクールなカラーで、さりげなくMarlboroと印字されている。
 佐原はタバコを一本引き抜いて咥え、ジッポライターで火をつける。大きな手が、口元に当てられるさまを横目で見つめる。細く白い煙が闇に溶ける。
「カラオケ、嫌い?」
「……あんまり」
 こいつには理解されないだろうなと思いつつ、ぼそりと答えた。
「そっか。俺も」
 意外な反応が返ってきて、一瞬意味を噛み砕けなかった。
「俺、オンチなんだもん。人前で歌うの、まじで恥ずいんだよね。けどさ、俺こういうキャラじゃん? なんか歌わざるを得ないっていうか。叫ぶ感じの歌い方でいつもごまかしてる」
 戻りたくねぇなぁと、佐原がぼやく。
 軽い口調と、うっすらと笑みの浮かぶ口元を見れば、それが深刻な悩みでないことはわかる。
 車道の向こう側に立ち並ぶ、居酒屋の灯り。佐原のタバコの先にともる光。アルコールが入ってぼんやりとした頭の奥で、それらがちかちかと明滅する。
「吸う?」
 佐原が白い煙を吐きながら言った。
 僕は、じっと佐原の方を見つめていたらしい。何か言おうと口を開きかけると、「ははっ、冗談」と佐原が笑った。
 静かな時間が流れ、僕は何となく聞いてみた。
「それ、おいしいの?」
「うーん、おいしいっつーか、スキッとする。落ち着く」
 たばこの匂いは好きじゃない。けど、どんな味がするのかは少し興味があった。
「……吸う」
 僕は、勇気を振り絞って声にした。
「お、いいじゃん」
 佐原は無邪気に笑う。
 僕みたいな地味なやつが、たばこに憧れるなんて馬鹿にされるかもしれないと思ったけど、佐原はそんなそぶりは一切見せなかった。じわっと胸の奥に温かいものが生まれて、たぶんこいつのこと嫌いじゃないな、と思う。
 佐原はしゃがんだまま足を擦って僕に近づき、たばこを一本差し出した。とまどいつつそれを受け取り、じっと見つめていると、「咥えて」と佐原が言う。
 端の茶色い部分をそっと歯に挟んでみる。
カチッと金属音がして、佐原の手元のライターに火が付いた。
 ん、と顎でしゃくられ、近づいてという意味だと分かった。大きな手に包まれたオレンジの光が近づき、僕のたばこの先にオレンジの光が移る。
「吸ってみ」
 もわっとした生暖かい空気が口内に入り込み、すっとミントのような香りと強烈な煙の香りが鼻に抜ける。喉が刺激を察知して、すぐにむせ返った。
「はじめはそうだよな。俺もそんな感じだったわ」
 頭の芯がふわふわとする。笑う佐原の口元を見つめ、こいつって八重歯があるんだ、とまとまらない頭で思った。
「全然おいしくないんだけど」
「慣れだよ慣れ。俺も、先輩のタバコに付き合ってる間に吸えるようになったし」
 いつのまにか距離が縮まっている。僕のパーソナルスペースはどこに消失したんだろう。
 こいつがどんなにヘビースモーカーだって、酒癖も女癖も悪くたって、なぜか周囲に許されてしまう理由がわかるような気がした。
「……2人で抜け出そうよ」
 向かいの居酒屋の明かりをぼんやりと見つめて言った。その瞬間、目の前を車が通り過ぎ、細かい水飛沫を散らした。僕の声はかき消された。
「え?」
 佐原が僕を見る。
「……なんでもない」
 じわじわと後悔の念がのしかかってきて、僕は両膝の間に顔をうずめた。やっぱり、聞こえてなくてよかった。どこも行くあてなんてないくせに、なんであんな馬鹿なことを言ってしまったんだろう。
 ふーっと息を吐く音。ややあって、佐原が言う。
「で、抜けてなにすんの?」
 ハッとして佐原の顔を見る。タバコを指に挟み、いたずらっぽい笑みを浮かべている。佐原は聞こえていたくせに、わざと聞こえないふりをして聞き返してきたのだ。
 自分の顔が一気に恥ずかしさに歪んでいくのがわかった。佐原はそんな俺を見て、さらに笑みを深くする。
 僕は視線を外し、佐原の手元のたばこに目をやった。
「僕も吸えるようになりたい。選んでよ、僕のタバコ」
 ほんとはタバコになんて興味はない。興味があるのはむしろ、佐原自身だった。
「いいよ」
 佐原はさらりと言って、立ち上がる。持っていたタバコを地面に落とし、靴裏で踏みつけると、側溝の隙間に落とした。


 コンビニのカウンターの前に立ち、たばこの陳列棚を眺める。
 いつもはカウンターの背景の一部くらいにしか思っていなかったタバコのパッケージも、よく見れば色鮮やかでおしゃれなものばかりだ。タバコにはこんなにも種類があったのかと、あらためて見て呆然とする。
「そうだなぁ、Winstonキャスターとか。甘めだし、初めてなら吸いやすいと思う」
 佐原は、シンプルな白い箱のものを指さした。
「じゃ、それにする」
「タバコ、××番お願いします」
 佐原は、カウンターに身を乗り出して言った。
 奥から店員がやってきて、棚をあさる。佐原は、僕の会計を待たずにふらっと店の奥に消えて行った。
 僕がたばこなんて、身の丈に合わないことをしてるなと思う。店員の視線が刺さるようで、小銭を出す手がおぼつかない。
 買ったタバコを握りしめて振り返ると、佐原はドリンクコーナーで酒を眺めていた。
「お前んち、こっから近い?」
 佐原がきく。意図がつかめず、「え」と返した。
「お前、一人暮らしじゃん。ガッコに近いんじゃねえの。ガッコに近いってことは、こっからも近いだろ」
 今日の一次会は、大学の敷地の裏通りにある居酒屋だった。そのまま近くのカラオケに入ったから、ずっと大学付近でしか行動していない。実際ここも家から二番目に近いコンビニで、生活圏内ではある。
「うん、まあ」
 曖昧に答えつつ、なんでこいつは僕が一人暮らしだということを知っているのだろうと思った。そういえばそれも、自己紹介で言ったんだっけ。
「なら宅飲みしようよ。俺、もう終電ないし」
 友達でもない僕と2人きりで飲もうてしてることに驚き、反射的に「でも」と口にする。
 僕と飲んだって楽しくないよ、と言いかけた言葉を飲み込んで「俺、酒弱いし」と言い換えた。
「いいじゃん、ちょっとで酔えるってことだろ? 量飲めなくたっていいよ。それとも酒、嫌い?」
 僕は、いや、と言葉を濁す。はっきり嫌いと言えるだけの経験値もなかった。苦い後味はともかく、この頭のふわふわする感覚は嫌いじゃない。
「ならいいじゃん。家どこ」
 濡れたアスファルトに、ネオンが滲んでいた。佐原は、ざっざっと、気怠そうにかかとを擦りながら歩く。僕はその隣を歩いた。


 他人を家に入れたのは初めてで、僕は内心緊張していた。
 買った酒を部屋に置くと、ベランダに出て、買ったたばこを開けた。佐原は、たばこは「ふかす」方法と、「肺にいれる」方法があるのだと教えてくれた。
 見た方が早いよ、と佐原はふたつの違いを実演してくれたが、やっぱりよくわからない。ふかす方は、あきらかにもわっとした白い煙が出て、肺に入れる方は、細く透き通った煙が出る。僕は、吸い込んだ煙を頑張って肺に入れようとしてみたけれど、体が拒否してしまう。鼻に抜ける煙くさい匂いが、どうしても受け付けなかった。
 その夜は、ふたりで飲み明かした。佐原は、無理しなくていいよと言いつつ、俺が飲むと楽しそうに見ていた。だから調子に乗って、3缶あけたとこまでは覚えている。そのあとの記憶はぷつんと途切れてしまっている。
 目覚めると、僕はベッドの上にいた。ローテーブルの上には、空き缶が山ほどのっている。ざっと10缶くらい。さらに、鏡月と書かれた瓶と、小難しい名前の日本酒が半分ほどなくなっている。そういえば、深夜にこいつは一度酒を買い足しにいったっけ。

 涼しい風が吹き込んできて、ベランダの方を見ると扉が開いていた。半透明のカーテンが揺れている。大きな背中、長い脚。カーテンの向こうに、佐原のシルエットが見える。
「おはよ」
 佐原が振り返った。たばこを吸っている。けれど、テーブルの上には一本もたばこの吸い殻はない。昨晩は吸わなかったのだろうか。それとも、すでに片付けてくれたのだろうか。
「ごめん、僕、全然記憶なくて……」
 ベランダに出て、佐原の隣にならぶ。佐原の顔を見上げて思う。やっぱりこいつは、身長が高い。
「ははっ、記憶なくなるタイプね。ナオ、別に酒弱くないじゃん。あんま飲んだことなかっただけだろ」
「うん。実は昨日初めてのんだ」
 昨日、強がって何杯も飲んだ後で言うのは恥ずかしかったけど、佐原には全部もう見透かされているような気がして、正直に認めてしまおうと思った。
「いいじゃん、また俺と飲も」
 どこまで本気なのかわからず、返答に少し困った。
「僕なんかでいいなら……」
 そう答えると、佐原はやった、と嬉しそうに白い八重歯を見せた。
「ここ、学校から近くていいよな。お前んちきれいだし。次の日一限あるときとかここ泊めてくんない? あと、終電なくしたときとか」
 佐原は、また来るからと、酒瓶を二本もおいていった。
 ちょっとした社交辞令かと思ったが、3日後早速LINEで通話がかかってきた。
「今から家いっていい? 酒買ってくから」
 僕はうれしくて、すぐに「うん」と答えた。以来、佐原は週に1,2回くらいのペースで僕の家に来るようになった。



→「たばこ(3)」へ続きます。

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