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あのころ を思い出したり妄想したり

紫陽花の季節ですね。
毎年、だいたい梅雨の季節に
誰のお世話にもならず、公園や庭の一画で
花がくを美しく色づかせます。
発色条件が変わることで、色合いは少しずつ変化しますし、
このごろでは、新しい種類の紫陽花も見られるようになりました。

毎年、当たり前のように 道端に彩を供してくれるけれど、
これは、植物にとっては、いわば仕事の類の営み。
私達には、あじさいと直接コンタクトはできないけれど、
見える変化を受け止めることはできる。
花々の方はこちらを理解し
何かの「言葉」を発しているのに、私にそれが解らないだけなんだろうか?
鳥や虫は、どうなんだろう?

そういえば、昨日ベランダから、完全に季節外れなのに、金木犀の香がしたのはなぜなんだろう?


私達は、この世界の出来事に、なんらかの接触をする、
いわば「体験」をしなければ、
その出来事を深く「わかる」ことはできないよ、と
それは当たり前でしょ、と思っていた。
しかし、
今や、現在のアフリカのサハラ砂漠の様子は 
Google earthでざっくり見る事ができるし、
外国にいる人と、当たり前にオンタイムで動画を見ながら話もできる。

物凄い量の情報が瞬時に移動する。
近くにはない事柄、直接触れられない、遠くの出来事にも
かなり臨場感が伴っていて
「怖い」とか「スゲー」とか、こちらにも
それが面前にあるかのような、気持ちが沸き起こって来る。
物理が解っていないので、わたくしめには、不思議な事であるのだが、
そのせいか、
一昔前に比べたら
我々の「心」は、動かされやすく、大変忙しいように思う。

しかし、一方
土中に埋まったかのように、我々に知らされない情報や知見が
多くある、らしい。
情報の波に揺さぶられているが、
果たして私達は、何を知ろうとしたらいいのか、
見当もつかないし、考えたことがない、とも思う。

量子理論の研究では、タイムトラベルについても語られる。
複雑系の解明が進めば
植物とお話できるようになるだろうか?
虫さんやウィルスや細菌にも、なんかの「言葉」があって、
会話する、ことは出来るようにならないだろうか?
思いもかけないような展開が広がり、
なんだか、病原菌と疲れる「戦い」をしていることが、
「アホやったねー」ってことにはならんだろうか?

解らないから、無駄に不安になるので
なんというか、仮想「敵」が
コミュニケーションができないものたち、ではなく
「話せる相手」みたいな認識ができたらいいのにな、
など、と妄想した婆です。

どうしたって、私達は有限で、わかりえないことは、わからないままだろう。

どんだけ頑張っても、解らない。
それこそが、はじめにあった「秩序」なんでしょうか?

今のところ、まだ
私にとって、体験していない事に思いを致すことが難しいことは間違いない。

そんなこんなで


covid-19が流行しはじめたころの、「あのころ」の
恐怖を忘れかけているなあ、
と突然思い出し
2020年の記事を読み返し、再稿しました。

多くの人が亡くなり、微生物に対する「恐怖」が世界中を覆っていた。
解らないことばかりで、塞いだ気持ちになって
あの時、私の心は、立ち尽くしてしまっていたように思う。

今も、まだ感染することも、後遺症もあるし、「戦い」は続いているのだけど、
この貴重な経験と知見を、皆で共有し 前へ進みたい。
進めなければならない。
私には、難しい計算はできないけど、
アップデートした未来は、きっとある。
未来の秩序もまた、素晴らしいものになるだろう。

そう願いつつ。

おさんぽでした。
お読みいただきありがとうございました。