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旅ログ! 〜宇都宮城と空襲の歴史〜

先日、宇都宮城に初めて行きました。宇都宮出身でありながらも宇都宮の歴史についてまったく知識が無かったことを思い知らされました。

・宇都宮城ってどんな城?

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宇都宮城は平安時代後期に藤原宗円によって築かれたといわれています。鎌倉時代には源頼朝、戦国-江戸時代には豊臣秀吉や徳川家康、秀忠といった歴史的重要人物が訪れています。宇都宮城の北側には二荒山神社があり、大事な戦の前には源頼朝や徳川家康が参拝したそうです。

宇都宮城周辺は神社・仏閣が多く、奥大道という幹線交通路も通っていました。このことから宇都宮は政治的な町(城下町)、宗教的な町(門前町)、交通の拠点(宿場町)という三つの性格を併せ持っており、当時としては珍しい「都市」としての特色があったようです。

以下のサイトに情報が書かれておりますのでより詳しく知りたい方はご覧ください。

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こちらが平成19年に復元された清明台という櫓です。宇都宮城は天守閣の無い城だったため、清明台が天守閣の役割があったようです。

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清明台の壁には銃先を向けるための穴も再現されていました。本当に狙えていたのかな?

・合戦が繰り返されていた宇都宮城

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宇都宮の戦国時代については知らないことだらけでした。宇都宮のまわりは北条、上杉といった有名な武将がいるのですが、彼らによって支配されていなかったため、戦国時代においては日の目を浴びない時代でした。ただ、宇都宮城で売られていたガイドを読むと、南北朝時代から豊臣秀吉による天下統一まで血で血を洗うような合戦が繰り広げられていたようです。とても勉強になりました。

・戊辰戦争の舞台へ

宇都宮城は戊辰戦争での舞台として知られています。旧幕府軍の大鳥圭介、土方歳三が宇都宮城を急襲し、一時的ですが奪い取ることに成功しました。司馬遼太郎氏の「燃えよ剣」という小説にも合戦のようすが書かれています。

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ここが土方歳三が攻め込んだといわれる宇都宮城の南東側です。宇都宮城は北側は二荒山神社が高台にあり、南側と西側には宿場町があったため、攻めるには適さず、旧幕府軍は南東側(田川以外はほとんど何もない)を選んで攻め込んだようです。あー、こんなところから攻めたのかと想像するとワクワクしますね。(気持ち悪いか)

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今回、資料館を訪れて展示されているものやそこに書かれた説明文を読むと新政府軍の立場から書かれているものが多いなと感じました。確かに宇都宮城は旧幕府軍に焼失させられていますから、そう思うのも仕方ないと言えます。やはり宇都宮の方々にとっては新政府軍の立場のほうが親しみがあるのでしょうか。

・宇都宮空襲による惨状と報道

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資料館内には宇都宮空襲に関する特別展も催されていました。1945年7月12日の深夜、115機のB-29爆撃機が宇都宮市街地を襲いました。空襲の目的は中島飛行機宇都宮工場をはじめとした軍需工場の破壊と住民の戦意喪失でした。空襲当時は強い雨が降っており、宇都宮市民はこんな日に空襲は来ないだろうと思っていたようです。そして米兵の爆弾も狙いが外れ、多くの民家に落とされてしまったようです。

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宇都宮空襲後の写真を見ると文字通り壊滅状態。住宅の面影は無くなっていました。こんなになるまで爆撃をしないと国民は戦意を喪失しないの?と不思議に思いましたが、並んで展示されていた空襲直後に発行された下野新聞の記事を見ると少し腑に落ちました。

その記事には7/12の空襲について被害の状況が書かれており、続けて「市民は米兵を倒すために早く準備に取り掛かるべし」といった市民を鼓舞するような内容が書かれていました。こんな状況なのに戦争続行を扇動するの?とツッコミたくなるとともに、誤った見識を持った国家をもつことと抵抗できなくなったメディアの力は恐いなと改めて実感しました。終戦から75年が経っているものの、いまだに事実を隠して国民を導こうとするメディアは少なくありません。メディアのそれを止めることは難しいですが、一人一人が事実と虚実を見極めることを意識し、どうするべきか考えることは可能です。そしてそのようなことを後代に教えていく必要があると感じました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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