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もっと、ぼやっとした世界に

世界はもっと、
言葉にできないぐらい複雑で、曖昧で、深くて

そんな世界に、そのまま生きてみる
言葉に落とし込む前の世界を捉えてみる

そうすると心は、
言葉の壁をするっと抜けて、より開放的な世界へと広がっていく。


よくわからないもの、感覚的なものの大切さ。


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こんにちは、siroです。
梅雨に入って少し経ちましたが、皆さんは体調を崩されたりしてないですか?

私はきっちり崩しました。
体調が悪いと何もできなくなり、焦り、自己嫌悪で負のスパイラルに入ってしまいますよね。

はぁ…。

そんなじめじめして澱んだ世界のなかで、何かぼやっとした窮屈さみたいなのを感じるようになりました。

それに興味を持ち始めて、断片を少しずつ集めながら過ごしていたのですが、
ベットに横たわって聞いていた、又吉さんのyoutubeで、その感情がぱっと形を成しました。

小説を書いたとき「テーマは何ですか」と聞かれたときに、「ないです」って言ったら結構驚かれたんですよ。
テーマとか、読者にこれを伝えたいとか言われても、
小説に書いたものが伝えたいことであって、
それを伝えてそこでこたえられるんだったら、それを言えばいいだけのことなんで、
そういう物はないというか、自分じゃわからないし、難しいんですよね。

ピース又吉直樹【渦】公式チャンネル「太宰治・三島由紀夫・手塚治虫が語る幸福論と人生論!萩原朔太郎の言葉にインスタントフィクションの原点が!?【#41 百の三】」より引用


なるほど。

私は、感覚でしか感じられないものにこそ、
作品にできるぐらい、圧倒的な”何か”があるのではないか
っていうふうに聞こえました。

もっと感覚で動いていいんだっていう。



私は、散歩をしたり、街歩きの動画を見る(流す)のが好きなのですが、
なぜか聞かれても、うまく言語化できません。

頑張ってしてみると、

町は、それぞれが日常を暮らす場所。
日常はすごくリアルで、
暮らしは一見普通だけど、よく見ると素敵なもの。
そんなみんなの生の人生が、町に溶け込んで、支えあい、絶妙なバランスで保たれている。
みんなの人生が重なり合う町を歩くことで、
私もまた町に溶け込み、みんなと重なり合い、一体化する。
そして、みんなと、すべてと、私が間接的に触れ合える。

みたいな。
でも、もちろんこんなことを感じながら歩いてるわけじゃなくって、上澄みを掬って膨らましただけですし(言葉にすると伝わりきらない=稀釈されるので濃く書きました)、
今あなたが抱いた”散歩”と、私の”散歩”は別ものです。

完璧には言葉にできない。

だからこそ、その思いが発散できずに、心の中に沈殿し、発酵して、その人をその人らしくするための栄養になるんではないでしょうか。

言葉にできないものは、言葉に置き換えない方がいい。



って考えると、言葉との付き合い方って難しいですね。

言葉、論理、理性は、私たちをより良いところまでいく道筋を見出してくれます。
でも、それに従いすぎたとき、それは一般的で、面白みがなくて、単純なものになる。
そこから外れて、道のない場所を、草木を搔き分けながら歩く先に、
より新しくて素敵な場所があると。

私たちの心は、まだまだ広がっていく余地があると思うんです。



理性ではなく感情で世界を捉える方法として、
言語化しすぎない っていう方法があります。

言語は、ぼやっとした感情にも、おおよそのアウトラインをきっちりと描くことができます。
でも、世界はもっともやっとしてる。

だったらいっそのこと、言葉にせず、
素敵なものを目の前に、ただ
「あぁ…」と呟いて趣を嚙みしめるぐらいがちょうどいいんじゃないでしょうか。


素敵なものを捉え、心で噛みしめ、十分感じた後に、
言語化というシャッターを切って、保存する。

すぐに写真を撮っていては、思い出が置いてきぼりになってしまいますしね。




ともかく、世界の捉え方によって自分の世界観って変わっていくから、
世界観リニューアルのきっかけにでもしてもらえれば嬉しいです!


槇原敬之さんの、お散歩の曲☟


thank you for leading~👋


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