JRの小劇場(ダスト・エッセイ)

 職場の先輩から、お守りのような存在だと言われたことが、最近では特に嬉しい言葉だった。日曜の夜、平日なら、仕事帰りの人で満員の東海道線で、開放感を感じながら、横並びに座る。お世辞を言わない彼女が、お世辞が要らない空間で、ぼそっと言うから、本当に嬉しかった。



 鶴見俊輔がこう言っている。


「言葉に表現されない思想が、言葉に表現される思想との対立を保ちつつ、これを支えるとき、言葉に表現される表の思想は、持続力をもつのではないだろうか」。平和を守る人でありたいと思いつつ、本当にそれができるかという終わりのな いせめぎ合いがあるか否か、鶴見はそこに着目し、この考えに至った。戦後日本は、それがなかった(「内面の小劇場」『思い出袋』)。



 お守りのような存在だと言われて嬉しいのは、自分が誰かの何かのためになることを強く望んでいるからに違いない。ここにも、せめぎ合いがある。そんな素質が、はたして自分にあるのか。責任を一点に背負いすぎた過ちを繰り返さないか。そんな疑いたちが、とりあえず、「対立を保ちつつ」、この望みを支えている。


 そしてひょっこりと、せめぎ合いの横から、ほかの「思想」が顔を出している。そもそも、誰かのためになろうとしなきゃ生きづらいのは、あまりに生きづらい。


 この「思想」もまた、つい抱く望みと、せめぎ合うのか。あるいは、まったく別の場所に立つ「思想」なのか。だとすれば、この「思想」を表に出すには、どれだけ深く、自分をえぐる哲学をしなければならないのか。

 

 せめぎ合いの構図を確認しようとしたが、複雑だなあと思い、あきらめた。



 別の日、上り方面の東海道線のドア付近に立ち、新橋の辺りを走行していた。隣を走る新幹線の車体に備わった電光掲示板に書かれた「のぞみ」の字が、静止した、かのようにみえた。一瞬、二車両の速度が重なったことを確認した。その直後、東海道線は、新幹線を置き去りにした。


(2023年6月15日投稿)

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