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書籍『子育てを最高の宝物に』出版記念に内容をnoteで公開します。

皆様はじめまして。
『子育てを最高の宝物に』を自費出版しました山口と申します。

この本はクラウドファンディングでご支援頂いた金額を元に出版いたしました。

クラウドファンディングのページはこちら↓
https://camp-fire.jp/projects/view/404179

目標達成とは成りませんでしたが、出版できるライン(自腹を切らなくて済む)はクリアしました。
ただ、出版と言っても出版社を通しているわけではなく、完全に個人で製作した本になります。

権利等が発生しているわけではないので、内容を定期的にnoteで公開しようと思います。

BASEで販売もしています↓
https://gussanstreet.base.shop/


この本はお子さんのいらっしゃる親御さんに読んでいただきたい本です。
子供は何を考えているのか、どんな心理状態にあるのか。
何が起こるとどんな心理的変化が起きるのか。
そして、周りの大人は子供と接する時、どんな意識や考えを持っておいた方がいいのか。

僕の体験した苦しかったこと、強制的に考えさせられたこと。
そこから気づいた大切なもの。



お時間ある時に、ご覧ください。

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子育てを最高の宝物に
〜いじめを受けた経験から気づいた母親の大切さと、子供のために考えておきたいこと〜


母親の笑顔は、世界を変える。


もくじ

自己紹介(ここは割愛します)


第1章 時代背景と教育といじめ

教育の変遷
昭和の教育が産んだもの
引き継がれた教育システム
教育の負の連鎖
いじめが起きる原因


第2章 子供のために、自分のために、大人が考えておきたいこと

現実逃避から得た転機
三日坊主
夢や目標の持ちかた
自分の特性を知ると安心するのはホント
ドリームキラーの捉え方
嫌われたくないと思う意識
不安とは
感情と記憶の関係
空想することの意味
没頭という自己肯定
失敗や挫折


第3章 今はまだ10代の君へ

真似たいと思う存在
「なぜ」を忘れないで
夢を無理に持とうと思わなくてもいい
あなたの経験は誰かを救う可能性がある
過去を再定義
時代の過渡期にいる大人たち


第4章 わたし〜点と線〜

芝居は感情のリハビリ
映像・動画制作が育む想像力
教育との出会い
おわりに



第1章 時代背景と教育といじめ

教育の変遷

最初に、僕個人の考えや気持ちは一切抜きにして、歴史上の事実をお話しします。
まずはめちゃくちゃ硬い話からですがお許しください。

僕は教育の専門家でも何でもないので、参考になるwebサイトの情報をもとにお話しします。実際に教育がどんな経緯で移り変わってきたのか、ものすごく端折りながらお話します。参考サイトは本書の最後に記載します。
教育の変遷のイメージだけでも伝われば幸いです。

ここの文脈ちょっと違うよ!って所があればFacebookのDMでご指摘ください!


▼江戸時代から明治時代

江戸時代に広まっていた「寺子屋」という子供たちが学ぶ場がありました。
「読み書き」「そろばん」など実学を教えていて、学年や年齢での区別はなく複数の学年が一緒に学び、生徒同士の「教え合い」も日常だったそうです。

「できる子」が「できない子」を教えるのは普通のことで、実は一方的にただ話を聞くよりも、学んだことを「人に教える」「伝える」ことが、最も知識が定着したり深い学びにつながるのは、よく知られていると思います。

そして寺子屋に学びにやってくる子供たちには一人一人にあったカリキュラムを作る個別教育を行っていたと言われています。
「寺子屋」において、先生はいわばファシリテーターの役目だったのかもしれません。
そして明治に入り、文部省は明治五年に「学制」が全国に公布され、小学校から大学校に至る教育制度の確立が行われました。

寺子屋はマンツーマンの「個別教育」からクラス単位の「一斉授業」となる公立小学校へと変わっていきました。
この寺子屋ですが、江戸期には全国合わせて数万もの寺子屋があったと記録されています。
「学制」の導入で全国の寺子屋が一斉授業スタイルへ変えることになったようですが、授業料の支払い能力や授業時間の制約などで通う生徒が減ったため、小学校の数は寺子屋の数よりも実際は少なくなったようです。


▼戦前から戦後

戦前と戦後で教育の在り方は大きく変わりました。
1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾して降伏をし、日本を占領した連合軍総司令部のGHQは、日本政府に対して「四大教育指令」と呼ばれた命令を発布しました。

学校教育と国家神道の結びつきを断ち切るための措置が取られました。
その翌年にはアメリカ教育使節団が日本に渡来して、男女共学や、教育の地方分権化などを骨格とする報告書をGHQに提出し、これが戦後の教育改革の柱となりました。

日本は5年制の旧制中学から医学専門学校に進めたり小学校から実業学校で学ぶことができたりするなどの【複線型】の教育を行っていましたが、これを機に「6・3・3(小学校6年、中学3年、高校3年)」の【単線型】の学校教育制度が導入されました。アメリカをモデルとして単線型となったのは大きな変化です。

少し解説します。
単線型学校制度とは、小学校や中学校の段階は修業年限や学習内容も共通で、高等学校においても修業年限では他に選択肢がない(=単線)学校制度。

これに対して、複線型学校制度とは、小学校や中学校の段階から、異なる修業年限、学校種が併存している(=複線)学校制度。
主に進学型か就職型かという違いによって分かれるようです。
このアメリカモデルをそのまま日本に導入してしまったが故に、どんな成長を遂げるかわからない時期の子供たちを偏差値や学年で階層分けをし、一定のラインを超えない子供を落ちこぼれとして判別してしまう問題が起こりました。

それまでの教育は5年制の「複線型」教育だったので個人の意思をある程度は尊重しやすい教育でした。

5年制の旧制中学から医学専門学校に進めたり小学校から実業学校で学ぶことができたりするなど自分で選べる構造になっていたのが「複線型」の特徴です。
(当時は今以上に選択肢が少ないこともあり、どこまで個人の意思を尊重できたかは不明です)

しかし、戦前と戦後ではこの教育システムの変更により、明確な階層分けが生まれ、偏差値や目に見える数字などで判別されるような仕組みに変わってしまいました。
学習のスタートの平等生は担保されましたが、ついていけない子は落ちこぼれ扱いされ、その後の人生にも大きな影響を与えました。

しかし、アメリカ教育使節団(第二次世界大戦後、占領下日本の教育再建のため、連合国最高司令部(GHQ)の要請に基づいて、アメリカ政府から派遣された使節団)は元々「個性尊重」をうたっていたそうです。

教育使節団は2回派遣され、1回目の報告書を連合国最高司令官に提出しましたが、その報告書の序論ではこう書かれていたようです。
「教師の最善の能力は、自由の空気のなかにおいてのみ十分に現される。この空気をつくりだすことが行政官の仕事なのであって、その反対の空気をつくることではない。子供のもつ測り知れない資質は、自由主義という日光の下においてのみ豊かな実を結ぶものである。」
アメリカ自由主義の教育理念を中心に据え、教育の近代化についての諸提案を行った際の内容が書かれていました。

アメリカと同じ単線型教育になったとは言え、アメリカ教育使節団の考えとは異なり、日本は個人の意思の尊重ではなく画一化、偏差値重視や知識習得を中心にした教育に進んでしまったようです。

単線型になった背景やアメリカ自由主義の教育理念が日本に浸透しなかった理由まではわかりませんが、現代にも大きく影響を与える結果となるターニングポイントになりました。


教育を何とかしないと
教育を変えよう!


と思うことは個人の自由ですが、今の教育だけを見るんじゃなくて、過去の教育の移り変わりを知ることが、現代の教育に活かせる何かを見つけられるかもしれません。

もし教育に興味が湧いてきましたら、ぜひ調べてみてください。

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次回は「昭和の教育が産んだもの」です。
第1章は歴史的な話で少し堅い内容ですが、気長にお付き合いできれば幸いです。

どうぞよろしくお願いいたします。



書籍『子育てを最高の宝物に』販売所
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amazon Kindleでも販売中(こっちの方が安いです)
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