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普通のしあわせって、つまらない?

20代後半~30代前半のいわゆる「適齢期」だった頃、彼氏がいなかったり未婚だったり・・・という女友達や知人の話を聞いていて
「で、結局何が欲しいの? どうしたいの?」と聞くと、答えは決まって
「普通でいいの(そんなに大したことは望んでないの)」
「普通の幸せでいいの」
そんな言葉を聞くたびに「この人の言う普通とか、普通の幸せって何だろう・・・」と思ったことを覚えている。

あれから20年ほど過ぎた今は「普通のしあわせ」というものが、さらに手に入りにくくなっているらしい。
50歳過ぎの私からすると「普通のしあわせ」とは、日々おいしく食べて、大切な人と穏やかに暮らせること。しかし、どうも最近はそんなつまらないことじゃ幸せを感じられなくなってしまった人たちが増えているらしい。

なぜ「普通のしあわせ」を感じられないのか。

10年ほど前から世の中は極端に二極化して物事を型にはめてしまい、気づけば何の遊びも余裕もなくなってしまったように思う。「勝ち組・負け組」「仕事・家庭」「結婚・キャリア」「金持ち・貧乏」・・・などなど。でも実際は、その間に居る人たちが圧倒的に多いはずなのに、その大多数の人たちが「普通のしあわせ」の実感がないのはおかしな話だ。

世間さまが思う「しあわせな人」のイメージは、どんなものなんだろう。

「生きがい」「やりがい」があって、生き生きと暮らしている人
仕事で地位を得ている人、仕事にやりがいや誇りをもっている人
恋人やパートナーが常に居て、ときめきを持っている人
お金の心配がない生活をしている人
健康で、病気の心配がない生活をしている人
向上心を持って自分を高め、それによって成功している人

とすると「しあわせではない人」はその逆なので、

生きがいがなく、何となく暮らしている人
仕事に生きがいややりがいを持てない人
恋人や信頼できる人がいない孤独な人
常にお金の不安がつきまとう人
体や心の不調を抱えている人
環境や不運のために努力しようにもできない人

こんな感じになるのだろうか。でも・・・ホントにそうか?

幸せの尺度なんてのは人それぞれだもんだから、他人がどうこう言おうと、他人がどう見ようと、余計なお世話のはずなのだが。自分が「しあわせ」と思っていればいいんじゃない? と思っても、なかなか人間そうはいかないらしい。

例えば人が羨むようなカッコイイ旦那が居て、子どもにも恵まれて、専業主婦で、都内の一等地に住み、何不自由ない暮らしをしていたって「しあわせ」と感じない人は居る。一方で、多少生活が苦しくても、毎日笑顔で暮らせることを「しあわせ」と感じる人も居る。

「自分はこれでしあわせなんだ」と思っていても、ちょっと他人の成功を目にしたり、成功者の本を読んだり、身近な人が成功したりすると、それだけで「自分はこれで幸せなのだろうか?」と不安に思ってしまうこともある。

つまりは、自分の心の在りようなのだろう。自分の外に幸せのカタチを探し求めて、理想とは違う、こんなはずじゃなかった、もっと幸せになれるはずなのに・・・と落ち込むのではなく、どう考えるか、どう受け入れていくか。自分のペースで、それこそ「普通に」生きていけば、その先に「しあわせ」があるかもしれない。

普通にしあわせを感じられることって、本当に大切なのだ。でも実は本当にカンタンでもあるのだ。私なんざ、ダンナが人工透析やら義足やらになったおかげか、ちょっとしたことでも「しあわせ」「ありがたい」と思えるようになった。不満を言っていた若い頃に比べれば、かなりお得で安上がりな人間になったと思う。

しあわせも、そうでないことも、永遠に続くわけではなく、どちらも一時的なものに過ぎない。だとしたら、毎日何でも「しあわせ」と思っていた方がいいと思う。

しあわせなんて、他人と比べる客観的なものじゃなく、主観的&自己満足でいい。「なんだかんだあるけど、今日もメシがうまいから幸せ~」・・・実はその程度でいいのだ。

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