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手放した名前

昨年の初夏、離婚した。
モラハラDV男に豹変してしまった夫(以下、元夫)から子どもを連れて逃げた8か月後のことだった。

結婚前の私は、神戸の専門商社で営業職をしていた。今では思い出すだけで気が遠くなるほど、男性中心の社会の中でしゃかりきに働いていた。女性が輝く社会に!と声高に宣伝されている時期だったので、追い風の中で働いているような気がしていた。

元夫とは、そんな時に友人の紹介で出会った。初めて食事をした時、お互いに亡き祖父がいかに破天荒な人であったか、でもそんな祖父が大好きだったという話で意気投合した。波長の合う、素敵な人だと思った。しかもすごく優しかった。かつては、とても大切にしてもらったと記憶している。

当時、元夫はいわゆる大企業に勤めており、私の勤務先の顧客企業でもあったので、周囲からはいい人を見つけたね、と言われることもよくあり、悪い気はしなかった。

半同棲のような暮らしを数年過ごし、その間に不和は一切生じず、お互いに支え合って神戸での激務生活を乗り切っていた。
結婚前の唯一のケンカは、私に東京転勤の話が持ちかけられた時だった。

元夫は「もう少ししたら東京に転勤になるから、そのタイミングで結婚しよう」とよく言っていたのだが、元夫に転勤話が来る前に、私のほうに東京への転勤話が舞い込んだのだ。

「東京に転勤することになりそう」と告げると、「遠距離か…じゃあ、ちょっと難しいね」と言われ、私はブチ切れた。

「自分が転勤する時は結婚で、なんで私が転勤する時は『遠距離か…じゃあ、ちょっと難しいね』なんだよ!?ふざけんな!!!!今すぐ別れろ!」と半同棲していた私のアパートで夜中に激怒し、かと言って終電をとっくに過ぎた時間だったので追い出すのも忍びなく、そのまま朝までどよんと重たい空気の中、寝たのか寝てないのか分からない時間を過ごした。

やっちまった…せっかく大好きな人と出会って仲睦まじく過ごしてきたのに、これでもう、全部パーだ…と絶望しながら目覚ましのアラームを止めると、「結婚…してくれる?」とプロポーズされた。

こんな展開、マンガでしかなくない?と感激しながら、全力で首を縦にブンブン振った。

大企業では通用しない話だと思うが、私が務めていたのは中小企業だったからか、上司に「結婚することになったので転勤はできません」と伝えると、神戸勤務を続けられることになった。

結婚の際は、当然のように私が元夫の姓に変え、私は鈴木さんになった。
私の旧姓は、地元の岡山でしか同姓の人に会ったことがない、ちょっと珍しい名前だった。営業職時代はお客さんに一発で名前を覚えてもらえるので、ラッキーだと思っていた。

仕事は旧姓のまま続けられたのだけど、海外の取引先に出張する際にはちょっと困ったことがあった。出張に会わせて海外メーカーの工場や展示会の入館証を作る際、先方は私が使用している旧姓しか知らないので、旧姓で書類を作ってくれるのだが、それがパスポートの表記と合わない。

機密情報を扱う工場ではルールが厳しく定められているため、パスポートの表記と入館証の表記が一致しないと中に入れない会社もあり、出張先であたふたした覚えがある。(それ以降、出張前には取引先にSUZUKIで書類作成を頼む、という作業が増えた)その時に、ああ、私のかつての名前は、公的に失われたんだな、と思った。

元夫に出会う前は、街コンに行ったり、婚活アプリに登録してマッチングを試みたりと、アフター5の活動で気忙しく、元夫との交際中は「このまま付き合ってて結婚できるのかな…」と不安になる時があったのだが、結婚後は私生活はもう安泰だと思え、全力で仕事に没頭できた。企業戦士のような先輩たちの背中を追って、膨大な量の仕事を必死にこなしていた。体力的にはしんどかったが、やり甲斐を感じていた。

同じ職場には、数人ではあるが育休後に復帰されている先輩もいらしたので、育休後に職場復帰する気満々で出産に臨んだのだが、育休中に元夫から転職したいと告げられた。
コロナ前の売手市場で、元夫の同期も次々と転職している時期だった。

夫を支える良き妻でありたい、という気持ちもあったし、元夫の方が元々収入が多かったので、転職でさらにお給料が上がるなら子どもを育てていく上で家庭全体にとってプラスだという実利的な面も後押しとなり、元夫の転職を応援した。

最終的に内定が出たなかで希望条件に合う転職先は、私の地元・岡山の企業だけだった。

私は岡山生まれ、岡山育ちで、高校卒業まで地元から出たことがなかったのだが、小学生のときから仲良くなるのは県外から転校してきて数年で去って行く都会の子ばかりだったので、ずっと都会に憧れていた。

昔から空気が読めず、その場にふさわしくない余計なことを上から目線で言ってしまう嫌な子どもだったので、閉塞的な地元では特に浮いていて、よくいじめの標的になっていた。地元にはあまりいい思い出がなかった。

膨らみすぎた都会への憧れを胸に抱いて東京の大学に進学したものの、若かりしころは身の丈を知る、ということを知らず、都会の生粋のお金持ちの同級生との格差を感じては惨めになり、大都会で暮らすのって孤独だ…私の居場所なんてどこにもない、とやさぐれていた。

何者かになれるだけの努力をしたわけでもないくせに、せっかく田舎から出てきたんだから何者かになれるはず!と自分自身への期待だけはあり、その期待と現実の自分のギャップに耐えられなかったのだと思う。大学3年生の時にいろんなことが重なってうつ病になってしまい、人生で初めての挫折を味わった。

なんとかかんとか大学を卒業し、東京は離れたいけど地元には絶対に帰りたくない、という思いで選んだのが神戸だった。山と海に囲まれた、ほどよくのんびりしていて、ほどよく都会で、手ごろで美味しい食べ物と遊ぶ場所に不自由しない、いい街だった。

その神戸から、よりによって岡山へ帰る?
生後半年の子どもを抱きながら、葛藤したことを覚えている。
「もう今の職場で働きたくない。このまま働いていたら病みそうだ」という元夫の言葉が決め手で、岡山へ引っ越すことに同意した。

その時住んでいたのは元夫の勤務先の社宅だったので、転職が決まってからはすぐに岡山での住まいを探し、社宅を退去する準備を進めた。
夏の暑さがしつこく残る秋口、エレベーターのない社宅の階段を何往復もしながら引越し業者の方が荷物を搬出してくださった。エアコンのない、潮風が入ってくる社宅で、赤子を抱えて搬出作業を見守るのはしんどかった。

神戸から離れることを決めた時点で私の上司に連絡し、「夫が岡山の企業に転職することになりました。私が子どもと神戸に残って暮らすのは金銭的に厳しいので、岡山に引越します。岡山から勤務させていただけませんか」と相談した。社内で検討して、後日連絡すると伝えられた。

岡山では、私の実家に近いマンションの一室を借りた。それまでの全室畳・常に除湿器を回しておかないと途端に黴びるせせこましいザ・昭和の団地暮らしから、現代的なフローリング張りの3LDKの住まいに移り、心機一転、十数年ぶりの岡山での暮らしを楽しもう!と気持ちを切り替えていた。
しかも、家賃が安い。岡山の3LDKの家賃は、私が東京や神戸で借りていた1Kの家賃とほぼ同額だった。

北には山、南には海があり、北から南にかけて急斜面になっている神戸での暮らしを経てから岡山で暮らしはじめると、土地が平坦だから徒歩での移動がすこぶる楽なことに気づいた。洗濯物が潮風で臭くなることもない。
スーパーや小児科に行くのに、いちいち坂道を下りたり上ったりしなくていいだけで、負担がぐっと減った。

地元には小児科も内科も耳鼻科も皮膚科も眼科も、とにかく病院がたくさんあり、アクセスもいいし、地元だからこそ口コミの収集も容易だ。
案外、岡山の暮らしも悪くないぞ。幼少期・思春期の嫌な思い出なんて、たやすく塗り替えられるんじゃないか、などと思っていた。

だが、元夫の様子がどうにもおかしい。1か月半ほどは優に残っていた有給をちっとも消化しないまま、大企業を辞めていたのだ。転職先での勤務が始まるまで、ちょうど1か月半くらい、無職でいるという。

不審に思い、「なんで有休消化しなかったの?」と問い詰めると、病みそうだから転職したいと言ったのは建て前で、実際には会社のタクシーチケットを使い込んだのがばれて、訴えられたくなければ自主退職しろと上司に詰められた結果の転職だったことが分かった。そういう事情だから、有給消化など言語道断だったらしい。

この事実を知った時、私をつなぎとめていた糸がふっと切れてしまったような感覚を覚えた。目の前のこの男は、私を騙くらかして私の神戸での生活を奪い、私をこの地元に引き戻しやがったのか。

岡山で一家3人、楽しく暮らしていこうと膨らんでいた気持ちが、一気に萎えた。元夫は、「まあ、もう終わったことだし」と私を騙したことを勝手に終わったことにしていて、働き始める前の自由を満喫したいと言ってひとりで台湾と九州へ遊びに出かけてしまった。

絶望していたけど、とはいえ子どもは相変わらず夜泣きするし、一日中おむつを替えなきゃいけないし、授乳に加えて離乳食も始まっていたし、かかりつけの病院を見つけたり、新しい暮らしを整えたりしなきゃ、と日々に追われていたら、何の気力も湧かなくなった。岡山に引越して、(たったの)2週間が過ぎたころだった。

私は元々家事が不得意で、おそらく母性もちょっと欠落していて、育休中は神戸にいる時から「なんか、ほんとに、向かない…」と落ち込むことばかりだった。それでもなんとか踏みとどまっていたところに元夫のウソが発覚したのがとどめになった。

毎晩、夜中に子どもに乳を与えながら、消えたいな、とばかり考えていた。
こんなんじゃ私、社会復帰できない。
あんなに地元から出たくて、ガリ勉で東京に出て、挫折したけど神戸で生活を立て直して、自立して生きてたのに、なんで今また岡山にいるんだろう。夫を応援しただけなのに、なんでこんな目に遭うんだろう。私みたいなのが母親じゃ、この子が不幸になるだけだ、ととにかく悲観していた。

実家の人々に助けてもらいながら日々を生き延び、
もうこのメンタルは専門的な支援をもらわなきゃ限界だと感じて産前産後相談ステーションに電話をしたら、すぐに保健師の方が自宅に来てくださり、
受診する心療内科を一緒に探してくださった。この保健師さんのおかげで、今も生きていると言っても過言ではない。

余談だが、神戸で新生児訪問に来た保健師さん(または助産師さん)に「子育てがつらいと感じて困っている」と伝えたときは、「私のほうがあなたよりもっとしんどかったわよ!」と言われただけで、適切な支援につながれなかったことを、今も残念に思っている。

心療内科で少量の抗うつ薬を処方され、数か月にわたり服用して少し元気を取り戻したころ、私の職場から電話がかかってきた。岡山から神戸への出勤は認められず、正社員として頼みたい仕事もないから退職してほしい、雇用するにしても今後はアルバイトかパートかな、とのことだった。

なーんだ、いくら営業職で頑張っても、女が出産したら正社員から切ってアルバイトかパートで安く使おうって魂胆なんだ、と分かると、「社会復帰できない」と悩んでいたのがバカらしくなって、一気に気力がみなぎった。

男性社員なら家庭の事情で在宅勤務や新幹線通勤が認められても、女性にはアルバイトかパートになる選択肢しかない会社なら、辞めてやるわ~!と思えたのが、回復の弾みになった。

幸いすぐに岡山で転職でき、子どもの保育園も決まり、無事に社会復帰できた。そうこうする間、元夫との婚姻は続いていて、なんなら私は夫婦関係の修復にせっせと努めていた。

私なりに最大限の努力を重ねたのだが、岡山に住み始めてからというもの、元夫の酒癖と金遣いは悪化の一途をたどった。彼なりにいろいろと苦しかったのかもしれない。

子どもの寝かしつけがやっと終わったという時に、上司に連れられて帰ってきて玄関先で盛大に吐いたこともあったし(物音で起きて泣く子どもを落ち着かせて再度寝かしつけたあとに吐瀉物を片づけた)、子どもの誕生日を身内だけで自宅で祝って片づけたあと、寝室に行くと元夫がベッドの上で赤ワインのゲロの海の中で気絶していたこともあった(この時は救急車を呼んだ)。誰も勧めていないのに、許容量以上にしこたま飲み、盛大に吐いて気絶するのだ。

そのうち、稼いでくる以上にお金を遣うようになり、残高不足で家賃が引き落とされなくなった。怪しい交友関係ばかりが広がり、誰とどこで飲んでいるのか最後には分からなくなったが、クレジットカードを手当たりしだいに切ってくるので、私の給料を彼の酒代に充てたことも何度もあった。

段々と、酒を飲むと私の人格を否定する言葉を発するようになり、モラハラお決まりの「誰のおかげで生活できてると思ってる」というセリフも何度も耳にした。ああ、こんなことを言う男とだけは一緒にはならないと思って生きてきたのに、私ったらほんとに見る目ない、と笑うしかなかった。

そんな状態が2年以上続いた。それでも、離婚する気はなかった。
離婚する、という選択肢が当時の私の頭にはなかった。
シングルマザーになったら、子どもに何か不利益が生じるんじゃないかと漠然と恐ろしく、それなら私がちょっと我慢すればいいだけだと思っていた。
日々のやり甲斐も何にもない、ただ耐えて、過ぎるのを待つだけの、虚しい日々だった。

元夫は子どもには優しかった。休みの日には公園で遊んだり、ジェラートを食べに出かけたり、それなりに家族らしい時間を過ごした。子どもも、パパが大好きなパパっ子だった。子どもが寝た後で帰ってくるので、子どもには泥酔姿を見せずにすんだから我慢できていたのかもしれない。酒さえ飲んでいなければ、私にも昔のように優しい時もあった。

だが、元夫の祖母の葬儀のために行った北海道で、私の堪忍袋の緒は切れてしまった。彼の祖母は介護施設に長らく入居しており、コロナ禍で面会できない時期が続いていたが、遂に危篤となり、施設から親族はいつでも見舞いに来ていいと許可が出た。

元夫は危篤の報を受け、彼の実家の人々やそのほかの親族とともに一週間ほど北海道で過ごし、十分に見舞いをしたと言って帰ってきた。
その翌々日に、祖母が亡くなった。遠方なのでそう何度も行けないため、葬儀には出ないという話でまとまっている、と言うので、私は子どもをスイミング教室に連れて行った。終わってから帰宅すると、やはり葬儀に出ることになったので全員で2時間後に北海道に出発すると言う。

今振り返ると、この時断っておけばよかったのに、と思うのだが、私は大急ぎで子どもの支度をし、スーツケースに適当に自分の着替えを放り込み、神戸空港発新千歳空港行きの飛行機に乗るため、元夫と子どもと共に、岡山駅から新幹線で新神戸駅へと向かった。

新千歳に着いた時には夜の7時を回っていたと思う。レンタカーを借り、まずは腹ごなしに回転寿司でも食べてから、数時間の距離の親戚の家へ向かうことにしたのだが、お寿司を食べた直後、子どもの口と首元が真っ赤に腫れ上がった。

私はアナフィラキシーが何度が出たことがあるくらい、重度の食物アレルギーがあるので、自分の子にもアレルギーが出たと思い慌てて病院を探したのだが、元夫は「どうせ大したことない。それより早く行かないと」ともう死んでしまった祖母の元に急ごうとする。

え、何この人、と思いながら、回転寿司店で救急車を呼び、夜間診療をしている近所の病院を受診した。幸い、症状は軽かったのだが、アレルギーの症状だから、岡山に戻るまでは朝晩必ず抗ヒスタミン剤を飲み、岡山のかかりつけの小児科で検査を受けるようにと医師から伝えられた。
(後日検査した結果、心配したエビや魚卵などの食物がアレルゲンではないことが分かった。スイミングの後に長距離を移動して疲れていたせいでアレルギー反応が出たんだろう、とのことだった)

病院の外で待っていた元夫は、バツの悪そうな顔をしながら、「大したことなくてよかったね」と言い、親戚の家まで車を運転した。到着したころには0時を回っていて、子どもはぐったりと眠っていた。元夫は亡くなった祖母の元へやたらと早く行きたがっていた割には、亡くなった顔をちょっと眺めただけですぐに寝床へ入ってしまい、ますます何なんだ、という腑に落ちない気分になった。

翌日、集まった親族だけで簡単なお別れの儀式を行い、火葬して骨を拾ったあと、精進落としに全員でステーキハウスに行った。注文する前から、疲れが溜まっていた子どもは機嫌が悪く、ぐずっていた。元夫に適当に注文しておいてと頼み、子ども連れて店外へ出て、抱っこで周囲を散歩して気分転換させた。

子どもの機嫌が少し直ったので店に戻った。同じテーブルには、元夫の弟家族もいた。弟夫婦にはうちの子と同い年の子どもがいて、その子はステーキハウスが無料で提供しているキッズランチを食べていた。元夫にうちの子の分は?と尋ねると、頼まなかったと言う。そのことにカチンと来た。

カラフルなお皿に、おにぎりとふりかけと小さなハンバークとコーンやミニトマトなどが載った、いかにも子どもが好きそうなミニプレートである。
元夫の急な決定で遠路はるばる北海道まで来て、前日にこんな小さな体にアレルギー症状が出て、疲れているなか葬儀に参加し、火葬が焼き上がるのを待ち、やっとごはんが食べられるという時に、なぜ無料のプレートくらい頼めない?

「なんで自分の子には食べ物を頼まないの?」と、我ながら感じの悪い言い方をしたと思う。店員さんを呼び、私が注文した。元夫は面子をつぶされて気分が悪そうだったし、弟夫婦も気まずそうだったのを覚えている。

運ばれてきたキッズランチを子どもに食べさせ、私も何を食べたのか覚えていないが何かしらの肉を食べた。食事を終え、この後は全員で近くにある温泉に移動するという話になり、内心、疲れてるのに勘弁してくれよという思いでいたら、移動中の車内で元夫と口論になり、私も子どもも、元夫にとっては義両親に披露するためのアクセサリーのようなものなんだという気分になってきて、悲しくて車を降りた。

私だけ降りたものだから子どもは泣き叫ぶし、元夫は激怒して車線を逆走(右側走行)しながら「てめえ!いいかげんにしろ!戻ってこい!」と怒鳴りながら私を追いかけ回した。

お互いに頭に血が上っていて、収集がつかなくなっているときに、「消えるならこのクソガキ連れて消えろ!」と叫ばれて、その言葉で私の結婚は消滅した。優しかった元夫の幻像も、このときに消え失せた。

この男、子どもにも優しくないじゃん。クソガキって何? あなたの子じゃないの? その時になって、子どもが0歳の時、土曜日の夜に高熱を出して夜間救急に連れて行った時、運転手として駆り出された(当時、私はペーパードライバーで夜間の運転は難しかった)ことで元夫は不機嫌になり、子どもを抱っこする私の背中に蹴りを入れてきたな、ということを思い出した。

子どもが1歳になったばかりのころ、とにかく何にでも登る子で、ふと目を離した隙に元夫のノートPCが入っている通勤用リュックに登ったのを、突き飛ばしていたことも思い出した。

なんで忘れてたんだろう。いや、忘れたことにしないと結婚を続けられなかったのか。全然優しくないじゃん、クズじゃん、この男。

現実を直視するのがつらすぎた。堪忍袋の緒が切れると、人間は3時間号泣し続けられることをこの時知った。

子どもを連れて岡山に戻り、そのまま実家に逃げ込んだ。
弁護士を立てて離婚、婚姻費用、養育費の調停を申し立て、約半年の調停期間を経て、無事に離婚した。

不甲斐ない親のせいで子どもにつらい思いをさせた(させている)ことが申し訳なく、自ら望んで結婚して姓を変えても喪失感があり、なんだか嫌だな、という思いがあったので、「名字、鈴木のままでいくか、じいじとばあばの名字に変えるか、どっちがいい?」と子どもに確認した。

「鈴木のままがいい!」とのことだったので、離婚後も私は旧姓に戻さず、鈴木さんのままでいることにした。
戸籍制度上、離婚後に新たに作った私の戸籍に子どもを入れるためには、親子の姓を統一する必要があるからだ。子どもが鈴木でいたいなら、私も鈴木でいる必要がある。(戸籍を分けたままだと、今後子どもが戸籍謄本を必要とする時に、余計な複雑さが生じることに懸念があったので、私の戸籍に入れる一択だった)

離婚後に旧姓に戻さない場合、婚氏続称の届出を提出するのだが、この手続きにより、私の戸籍からは旧姓の記載が削除された。もう私には、旧姓に戻るチャンスがなく、公的な記録から私の旧姓が完全に抹消されてしまった。手続きがやっと終わった、という達成感はあったけど、生まれた時からの名前が完全に消えたのは、やはりさみしかった。

その後、戸籍謄本を取り寄せたり、なんやかんやと書類を提出したりして、晴れて私の戸籍に子どもを入籍させた。結婚する時に「入籍しました♥」と言う人がいるが、「入籍」というのはすでに存在する戸籍に入ることを指すので、お互いに初婚の場合に「入籍」と表現するのは誤りだ。結婚する時は、「婚姻」と言い、親の戸籍から抜けて2人で新たな戸籍を作る。
「入籍しました♥」というのは、離婚後のシングルマザー(シングルファーザー)が子を自分の戸籍に移すときだよ!と誰の役に立つのかは不明だが宣伝しておきたい。

たいへんありがたいことに、かねてから切望していた字幕翻訳の仕事を離婚後にいただけるようになった。作品の最後に表示されるクレジットには、現在の名前である「鈴木寿枝」を使っている。
ちょうどお仕事をいただいた時期、「もう旧姓には戻れないんだから」と半ば思いつめていたからだ。

でも、翻訳の仕事は子どものころからの憧れの仕事で、せっかくその夢が叶ったのに、なんで私は鈴木なんだろう、と最近再び思っている。
私が今ぽくっと死んじゃったら、残るのは(残るのか?)鈴木姓のものだけなのか…と思うと、未練が残って死にきれない。

だから、次の夢は、出版翻訳とエッセイを旧姓の名前で世に出すことにした。そんなに名字にこだわるなら、最初から旧姓で翻訳の仕事をすればよかったのだが、やってみたあとでなんか違うと感じたら、そこからまたやり直してきた人生だ。これからもそうやって試行錯誤を重ねながら生きていきたい。


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