![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/95056260/rectangle_large_type_2_25320e666dcdebf258de00e6b9b1defe.png?width=1200)
Photo by
naranjajulia
私をあきらめることは、いつかの私をすくうこと
「嫌だなあ」とか「苦手だなあ」とかを人に感じる機会が増えたなと最近思う。
自我が大きくなってきたのか、たくさんの人と会う機会が増えたからか、ただただ常に疲れているのかはわからないけど。
人に嫌な思いを抱くことはかなり気持ちの消費が大きい。
私は繊細な人間だから、人に悪意を持ってしまう度に、自分も同じように人に思われてるのだろうか、といちいち気にしてしまう。
「ゆるすこと」と「あきらめること」はちょっと違う気がしていて、けど重なり合ってもいると思う。
なるべく、もうこの人はあかんわ、とさじを投げたくはないな。
あきらめるのはいつも、私のこだわりの方でありたい。仕方ないな、と丸ごと抱きしめる気概を持ちたい。たとえ、それが偽善でも。
ゆるすことは、痛みばかり背負うわけじゃなくて、ゆるした方も悪意という毒抜きができる。そして、誰かにあきらめられた私、誰かにゆるされずにただ沈んでいった私も、すくわれるだろう。
私は、私の存在が一片も無駄になってほしくない。
悪意はどうしても抱いてしまうし、そんな私も人間らしくてかわいいなと思うけど、いつまでも抱えていたら本当に腐ってしまう。
やっぱり結局、清々しい気持ちで生きていたいもの。
すぐに答えが出なくとも、分かりあう時を待ちつづけること。大事にしていきたいな。
「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦(ゆる)してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?