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私をあきらめることは、いつかの私をすくうこと

「嫌だなあ」とか「苦手だなあ」とかを人に感じる機会が増えたなと最近思う。
自我が大きくなってきたのか、たくさんの人と会う機会が増えたからか、ただただ常に疲れているのかはわからないけど。

人に嫌な思いを抱くことはかなり気持ちの消費が大きい。
私は繊細な人間だから、人に悪意を持ってしまう度に、自分も同じように人に思われてるのだろうか、といちいち気にしてしまう。

「ゆるすこと」と「あきらめること」はちょっと違う気がしていて、けど重なり合ってもいると思う。
なるべく、もうこの人はあかんわ、とさじを投げたくはないな。
あきらめるのはいつも、私のこだわりの方でありたい。仕方ないな、と丸ごと抱きしめる気概を持ちたい。たとえ、それが偽善でも。

ゆるすことは、痛みばかり背負うわけじゃなくて、ゆるした方も悪意という毒抜きができる。そして、誰かにあきらめられた私、誰かにゆるされずにただ沈んでいった私も、すくわれるだろう。
私は、私の存在が一片も無駄になってほしくない。

悪意はどうしても抱いてしまうし、そんな私も人間らしくてかわいいなと思うけど、いつまでも抱えていたら本当に腐ってしまう。
やっぱり結局、清々しい気持ちで生きていたいもの。

すぐに答えが出なくとも、分かりあう時を待ちつづけること。大事にしていきたいな。

「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦(ゆる)してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」
コロサイの信徒への手紙‬ ‭3‬:‭13‬ (聖書 新共同訳‬)

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