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【クラウドファンディング】Kickstarterをやってみて考えたこと〜オッチャンとワカモノのギャップ〜

誰かの何かをイイね!と思い、それに対してお金でサポートする。
そもそも日本では一般の人が知らない人に対してお金で支援するって、かつてはあんまり一般的じゃなかったように思う。いや、むしろまだまだ今もかな?

この3年間、環境関連の仕事をして、個人的に環境意識が高まってしまったきっかけで、「MyMizu」というサービスにKickstarterを通してプレッジしてみた。
お金を払うかどうかって実は結構悩んだんだけど、その過程で考えた事を書いてみたい。


「行動に対する自覚」の有無

6、7年前、中国に住んでいたことがある。
その時、多くの欧米人はホームレスに対しお金を落としていたけれど、そんな事をする日本人はほとんどいなかった。

海外に行くと大道芸と呼んでイイのか、街中でジャグリングやら、音楽やらやってる人たちは結構多い。それってちゃんとそこにお金を落とす文化があるから出来ることなんだと思う。

お金を落とす人たちは、別にみんなが裕福というわけでもなく、フツーのワカモノやオッチャンやご年配まで老若男女。単にその人のやってる芸?に、「イイね、ありがとう!」もしくは「イケてるね!頑張って!」というような軽い感じで、「気持ちを伝えるための手段」としてお金を落としている気がする。大道芸をする側は、「ヨシ、明日はもっとイイものやったるぞ」と張り切って翌日も街に立つ。そしてより良いものが生まれる。そういうサイクルができている。

それってもちろんチップの文化でもあるからだろうけど、そもそもそんな風に個人として、「私はあなたの提供しているものに対してどう思う」というのをみんなが持っていて、しかもそれを行動や言葉にできるから成し得ることだと思う。

良く言われる話で日本人は議論がヘタってある。自分の意見を述べるコトをあまりしたことが無いとか、教育の時にそんなことは求められてこなかったって話。

だから基本的に提供される社会サービスに対して、「そういうもん」という態度で無意識に臨んでいるのかもしれないし、お上が決めたものはイイとか悪いとかもあるけど、「まぁそういんモン、として従うもの」というのが前提にある。「無意識」というのがポイントで、無意識でやってるっていうことはつまり、「自動的にやってしまっている反応」ってこと。それくらいカラダに染み付いた根深い問題


福沢諭吉も驚くほど変わらない、今と明治

この間『学問のススメ』の関西弁訳の書籍『学問しぃや』(TK工房)という本を読んだ。

それまでこんな有名な古典なのに読んだことなかったのだけれど、関西弁って事で、柔らかくわかりやすくてホントによかった。面白かったのは、その内容で、当時の「人々のマインドはこう変わらなきゃあかん!」と述べられていることが、今も正直なところ結局そんなに変われていなくて、ずるずると引きずってきてるなってこと。

そもそもお上も庶民も、どっちが「偉い」なんてなくって、だから自分の意見を持って、はっきり言わなきゃあかん、じゃないと世の中良くならん、そのために学問しぃや、と。それが国民としての責任やって。

そんな風に関西弁版諭吉先生は言ってくれているのだけれど、根深い問題はそう簡単には変わらんのだなって、思えてならない。


オッチャンとワカモノの世代間のギャップの真相

最近海外からいろんな新しいテクノロジーをベースにしたサービスがどんどん増えてきている。イケてる人たちはそういうものに敏感で、どんどん取り入れ始めている。ワカモノたちもそんな新しい情報に敏感で、その利便性やら価値観ををごく自然に受け入れて、自分たちのものにしてきている。

シェアリングとか、その代表格だと思うけれど、その流れにある価値観のもたらす行動の変化として、「自分が共感できるものに対してお金でイイね!とサポートする」ってことがある。

言ってみれば投資そのものだけど、投資って支援するって部分よりもむしろリターンを得るためにやってる人が多くて、一般人に向けられているクラウドファンディングの流れはもう少しソコの金銭的損得の関係ではない部分で成り立っているはず。

つまりは欧米人的に、「僕はキミのやってること、めっちゃイイと思うよ、頑張ってね!」って気持ちの表現。

もちろんその行為の背景には、そんな風に「新しい事にお金払っちゃうイケてるヤツと見られたい」という社会的な欲求とか、そんな「イケてる自分でありたい」とかいう情緒的な欲求もあると思うけど、それでも純粋に「応援の表現としてお金で支援」という価値観がベースとなっている。

その変化って、実は結構大きな価値観の変化なのかもしれない。なんせこんなにも長い時間変わらなかった根深い問題が変わってきてるって事だから。

今起きているこれまでのオッチャンたちとワカモノたちとの世代間のギャップって、この辺の問題じゃないかなという気がする。
「無意識に思考停止して、自動的に世の中の仕組みを受け入れる事で社会の荒波を渡り歩いてきた人たち」と、「いろんな事に自覚的で自分が共感できるものだけにイイねしたい人たち」との価値観のギャップ


加速するワカモノと、置いていかれるオッチャン

もちろん昔からワカモノは反社会的な気分って持っていたと思うけど、それを支えるプラットフォームとしてネットやSNSのようなものがあるのがもう、かつてとぜんぜん違う。情報の価値は下がってソコの格差は薄れたし、人とのつながりがこれまで以上に価値を生み、チカラを持つようになった。そしてお金なんてなくても誰もがそんな背景をチカラに変えて、自信を持って発言していく。それをサポートする人同士がお互いにチカラとなり、自信を行動に変えていく。

オッチャンたちはもう、たじろぐしかない。

これまで考えたことすらなかったけれど、言われてることはなんせ正論だし、反論するロジックなんて無い。それを学ぶための習慣もないし、そもそも変化のスピードに追いつけない。

だから結局知ってるフリをして、そーだよね、と聞き流してしまうか、一方的に噛み合わない価値観を押し付けてワカモノをシラケさせるかのどちらか。

いずれにしてもワカモノはバカじゃないから、そんなテキトーな『オッチャンたちにはついて行けぬ」と、新しいコミュニティで新しいことをさらに加速し、イケてる人たちやはそれを後押しする事でワカモノたちのパワーはより一層強化され、世代間のギャップは益々大きくなっていく。それについていけない古いオッチャンたちと古い企業はもはや…なんて。
あながちなくは無い話。もしくはもう既に起こっている話。

もう10年前の書籍だけれど、『2052 今後40年のグローバル予測』(ヨルゲン・ランダース、日経BP社)の中に挙げられている五つの問題の中に、「世代間のギャップ」があった。

そこでは、「これまでの世代が残した負の遺産をワカモノたちが大人しく受け取るか」というテーマだったのだけれど、もしかしたらこの負の遺産の中には、「価値観や価値観をベースにした体制や組織」というものも含まれてくるかもしれない。

オッチャンたちを大量に抱える日本の古い体質の大企業は、どうしたら変われるのだろう?ワカモノたちはそんな企業にどう共感して、「自分の人生の一部を投資」していくのだろう?

ぜんぜんKickstarterの話が始まらないので、次回へつづく…


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