見出し画像

【連載小説】Berlin, a girl, pretty savage ~Childhood #15

『梨沙、今どこにいる?』

夏希から "梨沙が帰ってこない。電話にも出ない" と連絡を受けた遼太郎はすぐに梨沙の携帯に掛けた。19時を回っていた。

「学校にいる」
『学校? こんな遅くまで何してる?』
「小学校なの」
『小学校?』

***

「野島さん? 久しぶりね!」

出迎えたのは堀だ。
小学校の図書室で一人ぼっちでいた梨沙に声をかけ、絵画クラブへ誘ったベテラン教師。

受付から自分宛てに卒業生が来客で来ていると伝えられ出てみると、それは野島梨沙だった。中学の制服姿は大人っぽく見えたが、その浮かない表情はあの頃と変わらなかった。

彼女は黙っている。しかし腫れた目元は決して "ただ久しぶりに" 尋ねてくれたわけではないとわかる。

「工作室に行きましょうか。あなたがいつも楽しんで絵を描いていた所だから、その方が落ち着くでしょ」

堀は梨沙の背を押して、3階の隅にある工作室へ連れて行った。梨沙の履いた来客用のスリッパが大きくて、パタッパタッとおぼつかない音が廊下に響いた。

教室の窓の外はすっかり日も暮れ、湿った空気で澱んでいる。堀は空調のスイッチを入れた。

「1学期もそろそろ終わりね。どう? 中学校は。まだ絵は描いているの?」

梨沙の向かいに腰を下ろそうとした堀がそう声をかけると、梨沙は泣き出した。

「あらあら。どうしたの」

堀は慌てて梨沙の隣に移り、その小さな背中をさすると彼女は、

「先生、私、ダメな子ですか」

堀が知る限り、初めてそんな弱い言葉を吐いた。

「どうしてそんな風に思うの」

梨沙は自分が先輩を叩いたと言いがかりをつけられた件を話した。

「自分を無理に変えないでいいって、パパも叔父さんも言ってくれたから中学でもそうしてきたんですけど、やっぱり小学校の二の舞いになっています。生意気だって言われるし」
「環境が変わるとね、心は乱れやすくなるのよ。野島さんの周りの子だって多分そうなのよ。普段は余裕があるのに、ピリピリしちゃう。それがちょっと噛み合っていないのよ」
「担任のことも嫌いだし」
「若い先生?」
「そうです」
「あなたには色々経験を積んだ先生の方が、きっと合っているのよね。生徒は担任を選べないから、残念よね」
「私、ずっとこんな感じで生きていかなければいけないですか。早くベルリンに帰りたいです。もうやだ」
「野島さん、落ち着いて」

そこで梨沙の制服のポケットにあったスマホが鳴った。
取り出して着信相手を確認すると、瞬時緊張した表情を見せた。

「誰? お家の方じゃないの?」
「…パパです」
「ここにいること、お家の方は知らないの?」

梨沙は黙って頷いた。
出なさい、と促すと梨沙は二、三言話し切った。

「お父さん、何だって?」
「迎えに行くから待っててって」
「そう、じゃあそれまでゆっくりお話していましょう。聞かせてちょうだい、思っていること、何でも」

***

駅からの道のり、遼太郎は梨沙の手を引いて歩いた。制服姿の女の子と手を繋ぐのは親子とて少々気が引けるが、今は致し方ない。

「どうして小学校に行った? 懐かしくなったのか?」
「…」
「…だけじゃないよな。あの先生、お前が前に話していた絵画クラブの先生だろう?」
「うん」
「"わかってくれるの、外の世界では堀先生だけだ" って話していたよな。その先生の所に行くってことは、よっぽどのことでもあったんだろう?」
「…」
「俺にすら言いたくないことか?」

俯く梨沙に遼太郎は続けた。

「ママのとこに学校から連絡が入ったらしいぞ」

梨沙は怯えたように遼太郎を見上げた。

「なんか騒ぎを起こしたらしいな」
「パパ、私、手を出したりしてない! 信じて!」

梨沙は目に涙をいっぱいに溜めて言った。

「もちろん、信じてるよ」

つなぐ手に力を込める。

電話は教頭からで、斯々然々かくかくしかじかなことがあり、先輩や担任の対応に傷ついているかもしれないから、優しく接してあげてください、とのことだった。担任の対応もこれを機に見直させます、とも。

「それで、堀先生に話を聞いてもらいたかったんだな。学校であったことだから」
「…パパは仕事中だし、隆次叔父さんの所に行ったら "お前またかよ" って怒られるんじゃないかと思ったし。そうしたら堀先生の顔が浮かんで」

遼太郎は梨沙の頭を抱き寄せ言った。

「隆次も口はキツイけど怒らないよ。それはわかってるだろう?」
「…私、やっぱり病気なんだよね? 隆次叔父さんと一緒なんだよね?」

遼太郎は驚いて立ち止まり、梨沙を見つめた。

「グレイゾーンだって言っても、パパは家でも会社でも普通にしているのに、私は出来ない」
「梨沙」
「私、グレイじゃないよ。お医者さんも言ってたでしょ。普段過ごしていて辛いなと思ってきたら、可能性があるって。私、辛いもん。私、クロだよね?」

遼太郎は大きな瞳を潤ませ震える梨沙の体を、強く抱き締めた。なんて細くて脆いんだ、そう感じた。

「梨沙、ごめん。俺はお前のこと、最も近くで見てきて、最も理解できていると思っていた。でも間違いだった。お前のこと、何もわかっていなかったな。ごめん…」

遼太郎の瞳から溢れた涙に、今度は梨沙が驚いた。

「パパは私の一番近くにいて、一番わかってくれているよ」
「いや…辛い思いはさせないと、それだけは固く誓ってきたのに…梨沙…」

きつく抱き締め合い、道の片隅で2人は泣いた。

小学校まで迎えに行った際、梨沙がトイレに行っている間、堀から梨沙が語ったことを端的に聞いた。
梨沙は小学校に転校して来た時と同じように、今は居心地の悪さを感じている、と。
遼太郎はそこで初めて堀に、梨沙にASDの性質があることを伝えると、堀は納得したように頷いた。

『御本人はその事をご存知なの?』
『いつも一緒に病院に行っていましたし、私からも話していますから、知っています』
『そうですか。中学生になったとは言えまだ幼いし、戸惑うことも多いでしょうしね。でもそれを伺って益々、野島さんの生きづらそうにしている理由がわかりましたし、彼女自身に非があるわけではないこともわかって、少し安心しました』
『そうですか」
『今通っていらっしゃる学校も…来年から色々と新しい制度が取り入れられると聞きました』
『えぇ、全員担任制度に変わり、定期テストが廃止になるようです』
『学校側も問題意識があってそのような体制にするのでしょうから、きっと今より柔軟な対応になると思います。野島さんも "担任の先生が合わない" っておっしゃっていたけれど、それも幾分解消されるでしょう。全員担任制度を取り入れたということは、逆にそれぞれの学生を色んな目で細かく見てくれる証だと思います。たまたま担任の先生が本当に合わなかっただけと思いたいわ』
『はい、そうなることを期待しています』

堀はホッと安堵の息をついて、話そうかかどうか迷ったことを、話すことにした。

『…そう言えば野島さん、クラブの時に何度か、非常に細かく真剣に絵を描く時があって。ちょっと宗教画のような。さすがにドイツにいらしたから、そういった絵画に触れる機会が多かったんだろうと思って、訊いてみたんです。そうしたらあの子、"これは私の守り神なの" って話していました。その絵を描いている時は本当に真剣に打ち込んでいましたし、心なしか周囲にも寛容になっていた気がします。環境が変わると好きな事に打ち込めなくなったりもしますからね』
『守り神…ですか』

梨沙がトイレから戻ってきたこともあって堀はそれ以上話せなかったが、迎えに現れた遼太郎を一目見た時に、ピンと来た。

"守り神" は実在したのだ、と。

涙の落ち着いた2人はまた歩き出す。

「梨沙、言っておくがお前は病気じゃない」
「でも…」
「仮にASDだったとしても、それは病気じゃない。お医者さんが言ってたの、そこは忘れたか? 脳の回路が、生まれながらみんなと少し違っているんだ。あるところは人より弱いけれど、あるところは抜群に強い。思い当たるだろう? 蓮だってそういうところあるの、わかるだろう?」
「うん…」
「ASDは病気じゃない。だからこそ、治るものではない。一生付き合っていくんだ」
「…」
「隆次がそうしてるだろ」
「叔父さんは強い人だから」
「梨沙、強い人なんかいないんだよ」
「…どういうこと?」
「諦めて、受け入れて、前に進む。それだけだ」

梨沙は大きな目を見開いて遼太郎を見上げた。

「確かにそれがどれだけ難しいか、わかる。それに耐えられない人もいる。でも誰もがみんな、打ちのめされているんだ。悲観して、もうダメだと思うものなんだ」
「…」
「でもやがて諦めるんだ。何をどうしたって時間を戻してやり直すことは出来ないのだから」

そう、やり直せない。過去を変えることは出来ない。
死んで終わらせたくなければ、前に進むしかない。

遼太郎は自身でこの言葉を強く噛みしめる。

「梨沙だって5年生の時に出来なかった事は6年生で出来るようになった。でも何でも右肩上がりにトントン拍子にはいかないものだ。進んでもまた戻ってしまうこともある。3歩進んで2歩下がる、それでも1歩進んでるからな」
「2歩どころか5歩も6歩も下がってるよ」
「そんなことない。梨沙は意識して出来ていることがあるんだから、それを重ねていけばもっと良くなる。もちろんその間辛いこともあるけど、誰も梨沙を見捨てたりしないから。堀先生だって永遠に梨沙の味方だぞ。ただ…」
「ただ、なに?」
「言ってしまったな、自分が少し悪かったなと思ったら、少し時間を置いてでもいいから、相手に謝れ。いいか」
「…」
「お前が小学生の時は周りを気にせずお前のままでいろ、と言ったが、次のステップだ。自分が悪いか悪くないか、振り返るんだよ。ほんの少し時間を置くだけでも、怒りが去ると考えられるようになる。自分の言ったことや態度を振り返るんだ」

梨沙は頷いた。

「それが出来るようになったら、お前はもう自分に負けることはなくなるだろう。それが前に進むことだ。良くも悪くも、お前の影響力は強い。そのうちそれが活きてくることがある。絶対に。いつも言ってるけど諦めるなよ。お前は絶対に出来るからな」
「わかった…」

2人は自宅マンションの前で立ち止まり、家に灯る明かりを見上げた。





#16へつづく


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?