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【連載小説】あおい みどり #1

このお話はフィクションであり、病状・医師やカウンセラーの対応については物語の進行上、事実と異なる場合があります。予めご了承ください。
扉絵は憂俄さんに描いて頂きました。ありがとうございます。

プロローグ


乾いた風が、ようやく季節が移り変わっていくのを感じられる、そんな晴れた9月の終わりの昼下がりだった。

里中みどりは自宅の玄関前で立ち止まり、ため息をひとつ付いてからキーを差し込む。

家の内部から日差しで温められたぬるい空気がふわりと吹き寄せ、全身を覆った。
彼女を出迎える者は誰もいない。こんな時間では父も母もまだ仕事中だ。それは救いなことだった。

今日の翠は疲れ切っていた。
定時まで居ることが出来ず、体調不良を理由に早退してきた、午後3時過ぎ。

玄関で脱いだパンプスの片方が転がるのも気にせず冷蔵庫を開けると、普段家族の誰も飲まないコーラが入っている。
なんでこんなものが。"アイツ" の仕業かと訝しみつつ、ミネラルウォーターの2Lのペットボトルを手に取り半分ほど飲み干す。勢いのせいか、それとも今日の暗い出来事のせいか、嘔吐えづいてしまう。

とぼとぼと自分の部屋がある2階に上がり、廊下を通って突き当たりのドアを開ける。アイボリーと淡いブラウンで統一した翠の部屋は陽が差し込み、その眩しさに思わず目を細めた。

床やテーブルの上には請求書や納品書、その他郵便物など書類の類、ハサミやペンなどの文房具、脱ぎ捨てられた服や靴下、日々服用する薬の袋などが散乱している。
カバンを投げ下ろし、かろうじて脚の伸ばせるスペースのあるベッドにドサリと傾れ込む。

額に手の甲を乗せ、考えたくないのに頭の中を襲ってくる彼らの声や刺すような視線に顔をしかめた。

***

翠は大学を卒業してイベント企画会社に入社し、今年で6年目だ。
裏方に徹したくて今まであまり目立つような仕事はしてこなかったが、上司もそろそろ翠にリーダー的なポジションを与えたいと思っていた。上司は翠の抱えている "問題" を知らない。

それもあって、この10月に開催予定の若手エンジニアを対象としたセミナーの企画・運営のリーダーを翠に任すことにした。
翠の配下には企画チーム、設営チーム、運営チームがぶら下がった。数日間開催の予定で、翠の会社としてはそこそこ規模の大きなものだった。

各チームのスタッフは若手社員で構成され、当然ながら翠が一番のベテランだ。しかし翠はこんなに大勢を取り仕切るのはあまり経験がないし、そもそも大勢を前にして話すこと、ましてや陣頭を取ることが好きではない。今まで裏方に徹してきたのはそういう理由だ。
故にメンバーに対して連絡事項が隅々まで行き渡らなかったり、エンジニアを相手にするセミナーなど、内容や専門用語も曖昧な事が多く、言葉足らずで認識齟齬が多々発生した。

「どうせ私はダメリーダーだから」

翠は自虐的によくそう言った。それがまたメンバーの不安や不満を募らせていった。

それが今日、些細なことからとあるメンバーの不満が爆発し、便乗して文句を言い出す者が溢れ出し、ちょっとした炎上状態になった。
「リーダーは催し物の内容にも精通している必要があるんじゃない? 何もわかってないよね。それでいていっつも開き直ってさ」など、翠を責める陰口もあった。部外者からも「あの状態はマズイだろ」と囁かれるようになる。

どうすれば鎮火するのか。そもそも自分が起こした火の元を、自分で消せるのか。
誰にもうまく相談できず、上司も「ピンチはチャンスだ」と言ってあくまでも翠に任せようとした。それもそうだ。上司は翠の本来の姿を知らないのだから、無理もない。

多くの人の尖った気持ちが翠の心に突き刺さる。今日はこれ以上仕事を続けられない。

全部ぶった切ってやりたい。どいつもこいつも。
そう思った次の瞬間はもう、ごめんなさいと何度も心の中で謝っている。
不安で喉がカラカラになる。極端な言動や態度があるくせに、他人からどう思われているかは常に気になり、不安だ。

体調不良を訴えて早退したが、そんな自分もまた自己嫌悪に陥る。

翠は争いごとが非常に苦手な上に、敏感体質でとても疲れやすい。

学生の頃は、もめそうになったらすぐに逃げ出していた。手のひらを返したように突然音信不通にすることも出来た。

しかし、社会人となったらそうはいかない。争うくらいならどんなに自分に非がなくともすぐに折れる、自虐的に自分のせいにする。そうすれば一旦・・は丸く収まる、ように見える。
どうせ自分は大した事など出来ない人間なのだから当然だ。

翠は自分から折れることを新たに選んだ。

けれど、どんなに折れても明日もまた、彼らは私を責める目を向けるだろう。陰口も叩くのだろう。
それを思うと憂鬱で潰されそうになる。

果たして明日、出社できるのだろうか。

ねぇ、助けてよ。限界かもしれない。

まだ明るい時間だが両親の居ぬ間に、翠はバスタブに湯を張り、身を沈めた。

バスルームの明かりは点けず、いくつかのアロマキャンドルに火を灯す。薄暗いバスルームの中で髪と身体を洗い、ゆっくりと浴槽に身を沈め、目を閉じる。
いるの? いるんでしょ?

自分の息遣いに意識を向ける。


イランイランとラベンダーとフランキンセンスを混ぜたアロマの香りを吸い込んでいくうちに、ふわりと浮くような感覚が襲った。その時、僅かに動いた身体に水紋が広がり、水音がバスルームに反響する。

しばらくして開いたその目は、切れ長の一重がやや冷ややかな瞳。口元は細く、一文字に結ばれていた。

両手で顔の水滴を拭いながら立ち上がり、自分の身体付きにため息をつく。しかしそれを深く考えてもどうにもならない。バスタオルを取ると身体を拭き、ガシガシと頭を拭く。
振り返り、揺れるキャンドルの炎にバシャバシャと湯船の湯をかける。

ボートネックのボーダーシャツを被り、床に落ちていた衣類を洗濯機に放り込む。

冷蔵庫を開け、コーラを取りそのまま一気に流し込む。

2階に上がり、西日が差し込む部屋に目を細めた。相変わらず全く片付いていないことにため息をつく。

「翠…相変わらず部屋汚い。片付けろよ」

語りかけた相手は…その身体の本来の・・・持ち主、翠だ。

『やろうと思っても出来ないの、わかってるでしょ?』

そう言って翠は自嘲気味に笑った。

「先生を家に呼んだら、きれいに片付けるんじゃないか」
『先生って…南條先生のこと? 何言ってるの!? 男の人だよ? 呼べるわけ無いでしょう?』

憤慨した翠に彼も嗤った。「冗談に決まってるだろ」
しかし彼はすぐに笑みを引っ込めた。あの男がこの部屋を訪れる所を想像してみた。

そんな日は来るのだろうか。

小さなため息。

「それより翠…昼にまた目一杯食っただろ。胃がもたれてる」
あおいが男のくせに少食なだけだよ』
「ストレスの大食いだろ? 身体壊すぞ?」
『そもそももう、あちこち壊れてるんだから、関係ない』

翠の言葉に蒼と呼ばれた彼はフンと鼻を鳴らした。

「この辺のわけわかんねぇ封書、全部捨てていいんじゃないの? 期限がとっくに過ぎたものとかありそうだもんな」

封書をかざしながら蒼は言う。

『やめて、勝手に捨てないでよ。それに冷蔵庫のコーラ、勝手に入れたのは蒼だよね?』
「俺が飲むんだから別にいいだろ。今となれば俺だって存在意義があるんだから、それくらいいいだろ」

蒼は強めのため息をつき、せめてテーブルの上の山積みになった書類を仕分けし始めた。

「翠、クヨクヨするな。大した事ない」

作業をしながら蒼は翠に語り掛ける。

『大した事だよ。みんな私のせいだと思ってるじゃない』
「押し付けたいだけだよ。ちょっと頭使えば何とでもなることをよ、全部お前に委ねてるだろ。やつら他力本願もいいとこだよ。若いからって舐めすぎなんだ」
『…』
「とにかく全部自分のせいのするのやめてくれないか。頭どころか身体もイカれちまうだろ。ストレスの大食いなんかされたらさ。腹が気持ち悪いったらありゃしない」

翠は黙り込み、蒼は再びため息をついた。

西の茜色が薄く細くなっていき、宵が訪れる。蒼は窓を開けてカーテンを閉めた。
涼しい夜風が入り込み、蒼の頬を撫でる。

その時、階下の玄関の開く音がした。母親の帰宅だ。

「翠、もうお風呂入ったの?」

階下から声。蒼はチッと舌打ちし部屋のドアを薄く開けると「とっくに入ったよ!」と怒鳴った。

『やめてよ、バレるでしょ』
「いいじゃないかバレたって。そろそろ思い知ったっていいだろ」
『面倒なことはやめて』
「面倒なことになったのはそもそも誰のせいだと思ってるんだよ」

蒼の言葉に翠は再び押し黙る。

階下の様子を伺い、母親は何か言ってるようだがこちらに来ることはなさそうだ。
蒼は目を閉じた。

蒼が登場するのは必然的に宵から夜にかけてが多い。
そのためか夜が好きだ。とても落ち着く。夜なんて明けなくたっていいのにと、いつも思う。


銀河鉄道。
線路が天まで伸び、夜行列車が走っていく。光の筋。
辿り着く先は楽園なのだろう。俺たち・・にとっての。あの人・・・が待っていてくれたら、と願う。


「なぁ翠、先生のとこ行けよ」
『…そんな急に予約取れないから』
「診察時間外でもいいって言ってくれてただろ? 吐き出せよ、気持ちを」
『…』
「なぁ」
『…蒼が会いたいだけなんじゃないの…』
「えっ?」
『…』

翠、気付いている?

しかしそれ以上蒼が問いかけても返事はない。
翠はどこかに隠れてしまったようだ。

蒼は、どうやらいよいよ、陽の光を浴びる事になりそうだな、と腹を括った。

翠は翠で、蒼が出てきてくれるのではないかと心の片隅で期待していたから、ほんの少しだけ救われた気持ちになっていた。ただあの人・・・の話題になると、胸がちくちくする。






#2へつづく

このお話は、とあるSNSのフォロワーさんから依頼を受けて書かせていただきました。
VIVANTで知り合った事もあり、憂助とF、そしてDr.倫太郎を混ぜたようなイメージが湧きました。簡単なヒアリングを行った後、そのイメージでフィクションとして筆を進めています。

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