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【連載小説】奴隷と女神 #39

結局、同期3人の同時夏季休暇取得は叶わず、入社して初めて3人バラバラの夏休みとなった。
それには響介さんが絡んだ、環の私に対する疑心暗鬼も影響しているように感じた。

8月中は響介さんからの電話もほとんどなかったし、同期ともギクシャクしている…。つらい時期だった。

9月に入り、久しぶりに会話した響介さんの声は、いつもより元気がないように感じた。

『裁判ともなるとね。さすがにストレスが溜まるよ』
「夏休み、ゆっくり出来なかったんですか」
『あんまりね』
「無理しないでください、本当に」
『…ありがとう』

その日はちょっと話しただけで響介さんは『もう休むね』と言い電話を切ってしまった。
気がかりだった。


1週間後、部長会の議事録を確認していた時、営業戦略部の発言が "部長代理" となっていることに気づいた。出欠表を見ると響介さんは "欠席" となっている。

「キムさん、この前の部長会って西田部長は欠席されたんですか?」

さり気なく訊いたつもりだった。

「はい、西田部長は体調不良で欠席とのことでした」
「体調不良…?」
「僕も心配しています。それにしてもどうして西田部長の欠席だけ気になったんですか?」
「えっ?」
「毎回誰かしら欠席しているのに、松澤さんは西田部長だけ気にされました」
「そ、それは…。一度でも飲みに行ったことのある方だから。なかなか部長クラスの方と飲みに行くことってないのよ。キムさんのお陰でご一緒できた方だから」
「そうでしたか」

それからは気がかりで仕事が手につかなくなってしまい、何度もメッセージを送ろうとスマホを取り出した。

本来であれば日中の連絡は避けた方が良いだろうと思っていた。基本は電源を切っているとは言っていたけれど、もしONになっていたとしたら…、響介さんがどこでどんなことをしているかわからないし、そんなことをきっかけに新しいスマホの存在も知られてしまったら都合が悪いだろうと思った。

けれど…。体調不良で会社を休んでいるなんて、不安だった。

トイレの個室に駆け込み、メッセージを送信した。

昼間にメッセージしてごめんなさい。会社を休んでいるって聞きました。大丈夫ですか?

既読はすぐには付かなかった。やはり電源を切っているのかもしれない。
自席に戻り作業を少し進めては、ちらりとスマホの画面を見る。
メッセージの着信はなかった。

その日は定時で上がり、ずっとスマホを手にしながら帰った。
けれどいつまでも既読は付かなかった。

家に着き19時頃に電話を掛けてみたけれど、呼び出し音が鳴らない。

“何があったの…!?”

部屋を飛び出し、目黒川沿いを全力で走った。
頭に焼き付けている、響介さんの中目黒の住所へ向かって。スマホを胸に携えて。

歩いて15分ないし20分かかるくらいのところに、響介さんのマンションはあった。
206号室。
おそらく建物のどちらかの端っこだろうと思われた。奥側の向かって左端の部屋の明かりが点いている。

ふと以前あった、環のストーカー騒ぎを思い出す。いま私がやっていることはそれと何ら変わりがないじゃない、と。

「響介さん…」

祈るように名前を呟く。

一度マンション前まで近づき、近からず遠からずの場所でウロウロし、そんなことを繰り返すうちに通りの街灯のうちひとつだけ、まばたきをし始めた。

あまり長居しても仕方がないから、ため息をついてまた川沿いの道を戻り始める。
こんなに近くに住んでいるのに。

帰る途中、胸に当てていたスマホが振動した。メッセージの着信だ。

響介さんだった。

返信遅くなってごめん。死んだように寝てた。スマホの電池が切れているのも気づかなかった

良かった…力が一気に抜ける。意識はあるんだ。

心配しました。大丈夫ですか? 相変わらず食べてないんでしょう? お仕事に裁判にただでさえ気力も体力も使うのに、ちゃんと食べないと本当にだめです

そうメッセージを送ると電話が鳴った。

「もしもし?」
『…あれ、いま外にいるの? 風の音が聞こえる』
「今、目黒川沿いを歩いています」
『目黒川…?』
「心配で…いけないこととわかっていながら、響介さんのマンションの近くまで行ってました」
『え…まだ近くにいるの?』
「半分くらい帰ってきました…」

そう言いながら私は踵を返し、駆け出していた。走る私の様子は電話越しに伝わったはずだ。

角を曲がりマンションが見えてくると、手前の右端のベランダ…さっきは明かりが消えていた部屋の…に人影があった。

「響介さん…」

人影はこちらに向かって手を振った。グレーのスウェットの上下を着ていた。
少しづつ近づくと、その顔は頬がこけ、無精髭が生えていた。
これ以上は近づかないで、と手で私を制した。

「体調…大丈夫なんですか?」
『情けないことに、過労と栄養失調だってさ』

ふふ、っと笑うので、思わず大きめの声で「笑い事じゃないです!」と言ってしまう。

「…お願いだからちゃんと、食べてください」
『小桃李が作ったご飯が食べたい』
「いくらでも作ってあげます。でも今は無理でしょう? でも自分で作ったり外に食べに行けないのなら…出前のフリして、私が届けましょうか」

響介さんは笑った。

『いいアイデアだね。でも届けてもらったら、そのまま部屋に引きずり込んじゃいそうだからな』
「…」
『食事は何とか気をつけるよ。心配かけてごめん』

それから互いに言葉も発することなく、しばらく見つめ合った。
なんという切ない時間だったろう。

『小桃李が元気そうで良かったよ。じゃあ、またね』

響介さんはそう言って呆気なく電話を切ってしまったが、切った後もお互いしばらく目を離すことが出来ずにいた。

そうして小さく手を振ると彼は部屋の中へ消えていった。




#40へつづく

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