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【シリーズ連載・Guilty】あなたのうわさ #3
〜秋の頃
夏が過ぎ、夜は虫の声が聞こえるようになって、気持ちもほんの少しだけホッとする季節になった。
野島くんは相変わらず朝は一番乗りだ。どんなに暑かった日も涼しい顔して、きっちりとネクタイを締めジャケットを脇に置き、休憩スペースの片隅でラップトップに向かっていた。真っ白なワイシャツに真っ直ぐな背筋は、誰の目も引くと思う。
実際、そんな彼の姿は流石にあちこちで気づく人が出始めていたが、だからといって早く出社する人が増えるわけではない。朝早いオフィスは、清々しい。彼がいることも相まって。
だからその時だけが、私がほんの僅かな優越感に浸れるひとときだった。
「野島くん、おはよ」
とある週明けの月曜日。いつものようにアイスコーヒーのカップを片手に背後から挨拶すると、彼は僅かだけ振り返り「おぅ、おはよ」と返し、すぐにラップトップの画面に向き直った。その画面を見ると、提案書を作成しているようだった。
「本当に仕事熱心だね、野島くんは」
覗き見されても気に止めることなく「出来るうちに量をこなして早く質を上げてたいんだ」と答えた。
「流石だね」
「当たり前のことだろ」
「その当たり前を出来ない人も多いでしょ」
「ふーん、そうかね。そんな奴がいるとしたら相当な給料泥棒だな」
相変わらず辛辣な物言いだ。新入社員がこんなこと言っていたら、確かに生意気だし、面倒臭い奴と思われるだろう。
普段通りのやり取りだったが、いつもと違ったのは、彼がこちらを見ようとしなかったことだ。
その時、彼の右手の甲が腫れているように見えた。あ、と思わず口に出た時、彼は私を見上げた。その額…前髪で隠そうとして隠しきれていない傷にハッとした。
「野島くん…怪我したの? なんかあった?」
彼はバツが悪そうに額を擦ると言った。
「まだ目立つ? 俺…やっぱまだヤバい感じかな。気のせいじゃ済まないかな」
「何…どう言う事?」
「いや…。営業先で何か言われると面倒だなと思って」
そうして急にそそくさとラップトップを閉じると「お前もそろそろ行った方がいいぞ」と言いながら、私の横をすり抜けて行ってしまった。
*
そんな中、良からぬ噂を耳にする。情報源はいつものランチタイムの同期女子。
本当はゴシップなんてどうでもいい、むしろ嫌悪さえ抱くのに、自分の中の矛盾にただでさえ心乱れるのに。
「純代さ、最近のっしーと仲良いよね」
そう言い出したのは森本英恵だ。思わず口の中のものを吹き出しそうになる。
「え、どういうこと?」
英恵はツンと澄ました顔で言った。
「朝早く来て、休憩スペースで話してるんでしょう、毎朝」
「え、英恵、見てたの?」
「私じゃないけど。私、そんなに早く来ないし」
いくら早朝とはいえ無人ではない。けれど、そんな風に見る人がいたなんて思いもしなかった。
「たまたまいるから…話してるだけだよ。だって同期なんだし、話したっていいじゃない」
「そうだけど…。のっしーが楽しそうに話してるの珍しいって。それを面白く思わない人がいるってことだから、気をつけな」
「何それ…。誰がそんな事言ってるの?」
すると伊藤はるかが顔を寄せたので、他の皆も必然と寄せ合った。
「っていうかさ、のっしー、なんかヤバいことになってるらしいよ」
「え、なんかあったん? 営業で失敗したとか?」
「違う違う。浮気が発覚して、先週末花咲さんと修羅場になったらしいよ」
「えぇーやば!」
一番やばかったのは私の情緒だろう。浮気?
「はるか、どこでそんな情報仕入れたの?」
「先週末、会社から少し離れた路上でたまたま言い争っている2人を見たって人がいてさ」
「情報ツウだねぇー。ってかどこで見られてるかわからないね。こわっ」
「純代、今朝もいつものようにのっしー見かけたでしょ? ボコボコじゃなかった?」
「えっ、あ…いや、知らない…気づかなかった…」
咄嗟に嘘を付く。
「浮気が発覚して激昂した花咲さんが、ボコボコにやらかしちゃったみたい」
「それもエグい話だね」
「でさ、浮気の相手、一人や二人じゃないらしいんだよね」
「は? どういうこと?」
「めっちゃ遊んでるってこと!」
「だから純代も気をつけなって言ってるの」
背筋に冷や汗が流れた。
彼の怪我は花咲さんとの喧嘩。彼女が彼を叩いた…物であたったのかもしれない。避けようとして右手に当たり、額にもそれが当たったのかもしれない。
修羅場。
そして驚くべきことは、同期たちの忠告の対象に私が入っていること。
そこへはるかが急に「しっ!」と人差し指を口元に当てた。
振り向くと、スーツ姿の女性が席を探してキョロキョロしているのが見えた。
英恵が声を潜めて言う。
「噂をすれば…あの人が花咲さんだよ」
「え…」
髪の短い、如何にも仕事が出来そうな雰囲気を醸し出した、きれいな人だった。彼女は窓際の一番片隅のスペースに収まった。
朝、野島くんが作業をしている席だ。
「のっしーもあんな美人相手によくそんな事するよね。しかも結構歳上じゃん。怒らせたら怖そうなのに」
「アイツに怖いものなんてあるのかな?」
「いくらなんでも女は怒らせたら怖いでしょう」
ヒソヒソ声で同期たちは会話を続ける。私は一人片隅でランチを摂る花咲さんから目が離せなかった。
あの席、知っていて座ったのだろうかと勘ぐってしまう。見回せばそこしか程よい所が空いていないことは一目瞭然なのだが…。
でも。
野島くんは、本当にそんな人なのだろうか? 確かに入社当初から華やかな噂がまことしやかに流れていたけれど…。
私は彼のことをほとんど知らない。
職場では有言実行の裏で地道な努力をしている、誇り高い人だと思っている。
でもプライベートのことは何も知らない。飲みに行った時もそう言った話は全くと言っていいほど出なかった。
そんなの誤解だよ、と私は心の中で叫んでいる。
でも、誰にも届かないし、確証もない。
*
数日のうちに、野島くんが色んな女性と遊んでいると言う噂は瞬く間に広まった。さすがに身近な女子の名前は上がらなかったが、花咲さんのように他部署の女性だとか、客先の受付の女性だとか…。
野島くんと話がしたかったけれど、同期の余計な忠告のせいで、私は朝の休憩スペースに行けなくなってしまった。そんなことを気にする自分が、心底嫌だった。
けれど私なんかと噂になったら、野島くんがどう思うだろうか。それが怖かった。
そしてまた "私なんか" と考えている自分に自己嫌悪に陥るスパイラルに嵌っていた。
*
その日はやや季節外れの台風接近のため、早めに帰宅するよう会社から指示があったせいか、野島くんも定時前に帰社していた。目が合ったが途端に反らせてしまう。あんな話を同期がするものだから…。
けれど、そんな私を察することなく、野島くんは声を掛けてきた。
「野口、早く帰らないと風で家が飛ばされるか、大雨で水没するぞ」
背後から不意に声をかけられた私は、驚いて小さく叫んでしまった。
「ごめん、そんなに驚かすつもりじゃなかったんだけど」
私が声を挙げてしまったせいもあって、周囲の注目を集めてしまい、裏目に出た。
「あ…天気悪い中、お疲れさま…」
「まぁ営業職なんて天気ごときでいちいち文句も言ってられないから、どうってことないよ」
「…」
いつもだったらすごく嬉しいのに、今は会話を続けるのすら憚られる。けれど野島くんは続ける。
「ここの所、朝見かけないじゃん」
「あぁ…コンビニ寄るようになったから、そのまま自席に行っちゃうせいかも…」
もちろん嘘だ。
「野島くんこそ、早く帰らないと…電車、止まっちゃうよ」
「俺は大丈夫だよ。メトロの沿線だから、こういう時は強いんだ。止まることはない」
「それは私もそうだけど…」
「あ、そうか。野口もメトロ沿線か。じゃあ…飲みに行くか? こんな日だからこそ、ちょっといい店も空いてるぞ」
「え…!?」
誘いはとても嬉しい。でも…。
「今日はいくらなんでも流石に…」
「だってもう上がれって言われてるだろ。こんな時間から飲めることなんてないし、メトロは動いてる。問題ないだろ」
私は周囲を気にした。
「流石に今日は。ごめん。今度また。あ、ちょっと先だけど年末同期会やるって言ってるから、野島くんも…」
声を潜めて告げると、彼はキョトンと不思議そうな顔をした後「野口、そういう集まり好きじゃないと思っていたけど」と言った。
「え…」
「忘年会とか、そういう大人数集まるやつ。まぁ俺も行かない方がいいかなと思っているけど。嫌がる奴いそうだから」
「野島くん…」
野島くんは「じゃあ、今日は別のやつ誘うよ。ま、野口は早く帰るんだな」と言い、自席に戻っていった。
私は激しく後悔した。咄嗟に『噂になってはいけない』と思ってしまったのだ。
槍玉に上がるのが嫌なのか。
私なんかと噂になる野島くんが嫌なのか。
あれこれ巡って、また自己嫌悪に陥る。
本当はどんなチャンスだって、一緒にいられたらいいのに。
台風だろうがなんだろうが、彼の言うようにメトロは動いているのだ。
そう思って立ち上がり、企画営業部の方に顔を向けてみたけれど、野島くんの姿はもうなかった。
もう、一緒に過ごしてくれる人が見つかったのかな。
誰だろう。
女の人だったら、どうしよう。
情けない。何やってるんだろう、私は。
#4へつづく
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