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【連載小説】あおい みどり #3

このお話はフィクションであり、病状・医師やカウンセラーの対応については物語の進行上、事実と異なる場合があります。予めご了承ください。

~ 翠(みどり)

私が臨床心理士・南條秋人あきひとの元に通うようになったのは、あおいが登場するようになってしばらく経った、5月の終わり。間もなく梅雨を迎えるにあたり気分が落ち込む事も多く、不安な事が増したせいもあった。

当初は蒼が出てきている間、私はほとんど記憶がなかった。初めは夢を見ていると思っていた。けれど蒼からのメモを見つけてから、私の中で得体の知れない変化が起こっていると悟った。

解離性同一症ー。

ネットで調べるとそんな言葉が出てくる。発症のきっかけとしては、自分には思い当たる節がたくさんあった。

今はまだ夜間、家にいる時だから大きな弊害はないものの、いつ "交代" が起こるかわからない。仕事中に起こったらどうなるのか、不安だった。
また、蒼と交わされる "会話" についても、何の意味があるのか気になった。

いつも薬だけをもらいに通っているあの女医に、仕方なしにお願いをしに行った。

「カウンセリングを受けたいので、カウンセラーさんを紹介してもらえないですか?」
「…どうしたのです? 何か気になることでも?」

あなたではなくカウンセラーに話させてよ、と思ったけれど、私は渋々、蒼の存在のことを話した。
女医は表情を引き締め、直ちに細かな問診と、脳波などの身体検査を行った。
そして『解離症』の可能性について説明を始めた。

「自分は自分である、という確固たるものが揺らぎ、意識・感覚・行動・記憶・思考・感情などが分断され、日常生活に支障をきたす状態です」

医師は基本カウンセリングを行わないらしく、私の症状は薬物療法の他にカウンセリングを受けることを強く推奨するとのこと。だから最初からそれをお願いに来たのだと言うのに。

そこで紹介されたのが南條だった。

「その人…男の人ですか」
「そうです」
「出来れば女性がいいんですけど…」

女医はう~ん、と唸り「この方は元々精神科の医師で、臨床心理士の資格を取って転向された方です。里中さんのような解離症の患者さんを多く診てきておられますし、様々な意味でこの先生に関わるのが、里中さんにとってベストだと思うのですが」と言う。

"男には気をつけて" と言われて育った私である。どんなに素晴らしいカウンセラーでも、男でなければいけないことはない。

しかし一方で、この目の前の女医のように、女でも合わない人はいる。

すぐには答えを出さす持ち帰った。
寝る前にどうしようか悩んでいると、頭の中で声がした。

“お前、このまま男を知らないで生きていくつもり? 母親の奴隷のままでいいの?”

蒼の声だった。交代せずに彼の声が聞こえたのは初めてだった。つまり蒼が向こう側・・・・にいる状態で話し掛けてきたのだ。

「蒼なの? どうして…」
『んな事はどうでもいいじゃん。同じ身体なんだからさ。それより紹介してくれたカウンセラーに会ってみろよ。男を知れって、翠』
「男を知るって、変な言い方やめてよ。相手は医者だよ?」
『医者なら尚更、男だとか女だとか関係ないだろ。とにかく翠は意識し過ぎだし、それは母親のせいなんだぞ? 乗り越えろよ、翠』

母親のせい。

両親の顔を思い浮かべると暗い気持ちになる。実家暮らしの私は毎日顔を合わせているというのに。

「お母さんは私のことを思って、私のために言ってくれてたんだよ」
『違う違う! お前、本っ当にわかってないんだな。マジで呆れるよ』
「あんたこそわかってない! 私を守るために出てきたとか前に言ってたけど、そもそも私の何を守るっていうのよ!?」

その時だった。

「翠? 誰と話してるの?」

ドアの向こうで母親の声がした。慌てて「友達と電話」と答える。

「喧嘩でもしてるの? すごい剣幕だけど」
「大丈夫、大声出してごめんなさい」

母親が階段を降りていく足音を聞き、ため息をついた。蒼も声のトーンを落として言った。

『翠、踏み出せよ。色んな意味で』

色んな意味で。

あの女医にも言われた。『様々な意味で』あの先生に関わるのは意義がある、と。

そうして私は、ついに南條の元を訪れたのだった。

元精神科医と聞き、か細くて銀縁のメガネを掛けた冷たい印象の人を勝手に思い浮かべていた。感情を表に出さす、淡々と問診をする、そんなイメージ。

しかし南條は、少しくたびれた浪人生のような風貌で、肌のハリや数本の白髪などから実際は40代くらいだろうけれど正直年齢不詳。
中性的な顔立ちで、日本舞踊でも舞っていそうな男性、といえば良いのだろうか。あるいは女型の歌舞伎役者か。
と言っても極端な女々しさはなく、穏やかな笑顔は、気が弱いけど優しいクラスメイトのようでもあった。
また、温かみのある優しい声の持ち主だった。

他人、特に初対面の男性には警戒心しか出てこない私にとって、そんな彼の第一印象は不思議なものだった。

南條は自己紹介と、略歴を話してくれた。
食べることと自転車に乗ることが好きだと言った。とはいえ全然太っておらず、食べて乗って漕ぐからバランスが取れているのか、と思った。

「翠さん、と名前でお呼びしてもいいですか?」

南條の言葉にヒュッと身体が硬直した。

「あ、もし嫌だったらいいんです。初めてお会いしたばかりなのに、馴れ馴れしいと思われたらごめんなさい」

嫌なのか。ただひどく緊張した。そんな私の様子を見て南條は「里中さん」と名字で呼び直した。

「いえ」

咄嗟に声が出た。

「…どうしました?」
「…名前でいいです…翠と呼んでください。でも…私も先生のことを下の名前の "秋人" さんと呼ばないといけないでしょうか?」

南條は目尻に皺を作り目がなくなるほどの笑顔を浮かべて「いけないことはないです。好きに呼んでください」と言った。私の顔はさぞ真っ赤だったことだろう。本当に妙な心持ちだった。

電子カルテにて女医からの申し送り事項に予め目を通していた南條は、私のASDとADHD、そして最近 "自分ではない誰かが現れるようになった" ことは事前に把握していた。

私は後で気が付いた。南條が何故いきなり下の名前で私を呼ぼうとしたのか。南條のカウンセリングが始まった。

「最近何か強いストレスを感じたなど、思い当たることがありますか?」

返事に戸惑っていると、柔らかな笑顔を向けてくる。
彼の笑顔を信用していいのか。
医者なのだから、皆にいい顔するに決まっている。

南條は私の頭の中を察することが出来るのか、こう言った。

「最初はなかなか話しづらいですよね。でもここではつらいこと、本当は言いたいけど言えないこと、愚痴でも誰かの悪口でもいいです。僕には何でも話してくれて構いません。この部屋で話すことは、この部屋の外に漏れることはありません。担当の先生には処方箋を依頼する程度ですから、お話の内容を細かく伝えることはありません。何なら僕も医師免許がありますから、直接処方箋を発行することも可能ですが…」

私はチラリと、南條の顔を上目遣いで見た。

「翠さん。僕は、翠さんが今困っていることを解決する手助けをするために、翠さんの前にいます」

クラクラとした。
しかし途端に "男には気をつけて" の言葉がスヌーズアラームのように鳴り響く。

初回のカウンセリングではほとんど自分のことは話せずに終わってしまった。


***


南條のカウンセリングは人気とのことでなかなか予約が取れず、2週に1度の頻度となった。幸い、他人格との交代も頻度がそれほど多くないこと、自傷したり凶暴な性質はまだ認められないことから、当面毎週でなくとも問題なし、となった。


そうして6月も半ばを過ぎた。
雨が続くと調子が悪くなる。南條が耳のマッサージを教えてくれて、事あるごとに耳をいじるようになったが、そのせいか例年より頭痛が軽くなっているような気がした。


カウンセリングのきっかけが『交代人格が現れたこと』なので、その原因と思しきことについて、南條のヒアリングが重ねられた。ヒアリング中に蒼が登場することは、暫くの間はなかった。
彼はほどんどが入浴中に現れる。そして寝ている間にまた入れ替わる。この頃はまだ互いの意思では入れ替わることは出来なかった。

入れ替わっている間に何をしていたかの記憶はないが、夢を見たかのように会話を憶えていることがあるので、それを伝える程度だった。

家族のことを尋ねられた時は父親の話はほとんどせず、母親のために一生懸命頑張っている、というようなことを話した。母は私がいてあげないといけないんです、と。

私は気持ちが乗ってくるとあちこち話が飛躍するので、余計なことも話した。ASDやADHDのエピソードはすぐに南條も察しただろう。
学生時代に仲良くしていた友人たちをSNSでブロックしたこと。友達なんだけど、友達って何?と時折思うことがあること。仕事では他人にどう思われているか常に気になってしまうこと、など。

南條は私の心に沿うように、穏やかに、時折眉を下げて困ったような顔をしたり、静かにゆっくり瞬きして頷いたりして、表情豊かに私の話に耳を傾けた。


私の中で変化が起こっている。
その片方で "男には気をつけて" が鳴り響く。

急に苦しく感じたその時、眉間に寄った皺を南條は見逃さなかった。





#4へつづく

【参考文献】

https://www.i-repository.net/contents/outemon/ir/406/406171201.pdf


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