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「対岸の鐘」第4話【創作大賞2023】
夕暮れ。
観光スポットにもなっているバルチャルシア広場の水飲み場で真結さんと待ち合わせた。
彼女が来る前に広場を囲むように立ち並ぶ土産物屋を眺めていると、弾丸の薬莢のキーホルダーが売られていて驚いた。
紛争で実際に使われたものなのだろうか。
珍しいけれど買おうかどうか迷っているうちに、背後から声をかけられた。
「春彦さん、お待たせしました」
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僕は真結さんの姿を見て驚いた。
先程までバックパックを背負いTシャツにパンツ姿だったのが打って変わって、華奢な肩紐の黒いワンピース姿だったからだ。足元も、ラメが少し輝く黒いバレリーナシューズを履いている。さっきまでは黒いプーマだった。
「あ、着替えたんですね…」
「まぁどうってことない店ではありますけど、汗臭かったし、一応」
真結さんはほんの少し照れくさそうにしたが、すぐに「じゃ行きましょう」と彼颯爽と前を歩き出した。
もしかしてちょっと、気を遣ってくれたのかなと思う。しかしあまり早合点してもいけない…。
広場から脇道を入ってほんの数十メートル行ったところにある店の前で立ち止まった。「ここにしましょう」
![](https://assets.st-note.com/img/1688291633388-k2uAGoqhZy.jpg?width=800)
僕らはまたも地ビールと、その名物のチェヴァプチチという料理を頼んだ。
ピタパンのようなものに玉ねぎのみじん切りが添えられている。とてもシンプルな料理。ビールで乾杯した。
チェヴァプチチはとても塩気があってかなりしょっぱいが、めちゃくちゃビールに合うと思った。
「結構しょっぱいけど美味しい…。これビールが進んじゃうな。ザ・ローカルフードって感じでいいね!」
「ボスニアでは他にブレクっていうミートパイも有名ですよ。グラムで注文する店が多くて、ボリュームありすぎて私は食べられないんですけど」
「へぇ、僕食べてみたいな! 僕と一緒だったら食べられませんか? 一緒に行きましょうよ!」
真結さんは眉間に皺を寄せた。
「春彦さんってグイグイ来る方なんですね」
「あ…、ごめんなさい。迷惑でしたか」
彼女はそれには答えずビールを口にした。
「さっきこのチェヴァプチチに似た料理が近隣諸国にたくさんある、という話をしました。他国は豚肉や牛、羊なんかを混ぜた物が多いですけれど、ボスニアでは牛肉メインです。ご覧になってみてもわかるように、この場所の周辺はモスクが多いです。実際はイスラム教の他に東方正教、ユダヤ教、カトリックなど、まさに混沌としています」
「うん、さっきモスタルで橋から街を眺めた時に、右手からはモスクからアザーンが聞こえて、左手からはキリスト教会の鐘の音が響いて、すごい場所だなって思ってたんだ」
「この国はとてもデリケートな国です。民族紛争は完全に和平におさまっているわけではなく、くすぶっています。モスクや教会やシナゴーグはあちこちで見かけますが、実際には民族的にはほぼ完全に住み分けがされています。今日降りたバスターミナルはボシュニャク人やクロアチア人が住むエリアになりますが、そことは別の、ルカヴィツァというバスターミナルがサラエヴォにはあります。実際そこは "スルプスカ共和国" と名乗っていて、セルビア人が多く住むエリアになります。使われる言語も違います。セルビアやモンテネグロに移動するのならそちらのバスターミナルを使うことになるので、そこに行くと私の言っていることが実感できると思います」
「そう…なんだ…」
僕は真結さんが、そもそもなぜ一緒に食事をすることになったか、という本題に持っていこうとしていることに気づいた。
「私は以前、ムスリムはムスリム同士で結婚するものと思っていました。実際にイスラム教国ではそのような決まりを設けている国がほとんどでしょう。でもこの国では夫がキリスト教、妻がムスリム、またはその逆という夫婦は当たり前にいました。私はまずそこに強い関心を覚えました。ちなみにここではムスリムをボシュニャク人とも呼んだりします」
彼女は話しながらも食事を進めているので、僕も遅れを取らないように食べながら聞いた。
「夫婦では異なる宗教をそれぞれ重んじて営みを送っていたのに、政治では民族主義者が対立しました。それまでユーゴスラビアはチトーという圧倒的独裁者によって統治されていましたが、彼が去ったあとに独立運動が高まり、この辺りはセルビア人やクロアチア人、そしてボシュニャク人が共存していたため、互いの主張が高まり独立しようと民族対立が勃発しました。それがボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争です」
僕は黙って真結さんの話を聞いていた。
彼女も時折僕の目を見るけれど、聞いていようがいまいが、語りを続ける意思を感じた。
「サラエヴォの街を散策すれば、それを感じる場所がたくさんあります。春彦さんは明日以降はどうされるんですか?」
唐突に明日の予定を訊かれ、僕はちょっと面食らった。
「明日ですか…。まぁ…街を散策するつもりでいました」
「もし良かったら、少しなら私が案内します。楽しい観光地の案内ではなく、紛争の跡を感じることが出来る、あまり楽しくないツアーになると思いますけど…どうしますか?」
少し前まで僕は、明日以降も真結さんと会いたいという下心が半分以上を占めていたが、彼女の解説なしでは見過ごしそうな街を知りたいと思い「案内してほしい」と申し出た。
真結さんは少しだけ、微笑んだ。
「本当はつまらない話だなって思っていますよね」
「そ、そんなことないですよ」
「どうしてボスニア・ヘルツェゴビナを旅先に選んだんですか?」
「それは…本当に何となくなんです」
それでも真結さんが僕の瞳を見つめるので、僕はたじろぎながらも、8年前のドブロブニクで、ドイツ人ツーリング族3人組が『僕たち、これからサラエヴォに行くんだ』の言葉に導かれてさ…という話をした。
彼女の重たい話から何となく、空気が軽すぎて台無しになるような気がしたが、彼女はニッコリと微笑んで言った。
「良かったです。旅は扉です。開ける必要のない扉はたくさんありますけど、開けてしまったら飛び込むしかありません。そして日本人として、異文化・異民族としてその国について向き合うか否かの選択肢が与えられます。もちろん、ただ美しいものを見て、美味しいものを食べて、たくさんショッピングをして、あぁ楽しかった、という旅を否定するつもりはありません。
ですが、その土地に生きている人は、その美しい土地がどのように成り立ち、どのように営んできたのか。そうして今私たちが見ている景色は、どのような土台が会ってのことなのか…。それを知ったら、その土地、国のことがもっと愛しくなると思います。春彦さんもせっかくここまで旅しに来たのだから、是非日本人としてどんなことを感じるのか、考えてみてほしいです」
真結さんはビールを一気に飲み干した。
*
食事を終えて僕たちは旧市街をプラプラと散歩することにした。
暑すぎず寒すぎない、心地よい宵だった。途中真結さんは上着を取り出し羽織った。
先程までこの国の歴史について熱く語っていた彼女だが、打って変わって口数は少なかった。
それでも程よく入ったアルコールのせいか、この宵の風のせいか、穏やかな顔をしているように見えた。
「日本人観光客、少ないでしょう」
不意に真結さんは言った。
「そうだね」
「アクセスも簡単ではないですし、見栄えの良い絶景も絶品グルメも買い物スポットも、惹かれる感じではないですしね」
「そうかもしれないけど、それがいいってこともあるじゃない」
「そうですね。こんなに長閑で、どこか危うい街、滅多に出会えませんよ。本当に魅せられます」
「真結さんは本当に好きなんだね、サラエヴォが。あ、ボスニア・ヘルツェゴビナが、かな」
真結さんは頷く代わりに、風に煽られる髪を抑えて微笑んだ。
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第5話へつづく
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