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【連載小説】Berlin, a girl, pretty savage ~Father Complex #7

学校から戻り、一人きりの部屋。

カレンダーを見ると、遼太郎の帰国日までもう同じ曜日を迎えることはない。
焦りと不安で、落ち着かない。

ひとりになる。
生まれて初めて、長い時間離れて暮らすことになる。

窮屈な日本を離れたのは良いけれど、ひとりになりたいわけじゃない。
現実が、迫る。

タブレットを取り出し、あの『絵』を開く。
小学生の頃から描いている、剣を振りかざすミカエルの絵だ。

指で絵の上の髪、瞳、そして左肩の傷のラインをなぞる。

梨沙はキッチンからナイフを持ち出し、バスルームへ入った。
上半身の服を脱ぎ、鏡に向う。
透き通るような白い肌は陶器のようだ。余計な贅肉がなく、女性らしい丸みを帯びた身体というよりは、少年のような細さだ。

鏡の中、自分の顔を覗き込む。
髪を撫で、頬を撫でた。目、鼻、そして唇をなぞる。
自分の身体の部品は、父から出来ている。
ただ顔は母に似ていると、よく言われた。

だったら、もっと父に似たものを持ちたい。

この身体に刻んで、生きていきたい。

「パパ…離れないで。日本に帰らないで。私を捕まえていて。ずっと私のそばにいて」

梨沙の想いは親に対するそれを大きく超えている。

左手で逆手にナイフを持ち、左の鎖骨のすぐ下辺り…遼太郎が持つ傷と同じ場所に…刃先を立てた。

もし、お守りの腕時計があったら、梨沙は思いとどまっただろうか。

ごくりとつばを飲み込んでから少しだけ、ゆっくりと左に引くと、その白い肌に真紅のラインが引かれ、やがて大きな雫が滴り落ちる。

それを見て梨沙は動揺しナイフを落とした。震える手を口に当て、瞳からは大粒の涙が胸に落ちていく。

その場に尻をつき、バスタオルを抱え泣き続けた。

***

帰宅した遼太郎は、暗いままの部屋を不審に思った。
梨沙の靴はあったから、中にいるはずなのに。

「梨沙」

バスルームのドアの隙間から灯りが漏れているのが見えた。
ドアを開ける。

そこにバスタオルを抱え座り込む梨沙がいた。

「何してる…どうしたんだ…?」

顔を上げた梨沙の泣きはらしたその目は虚空を見つめるようだった。
彼女の傍らに落ちているナイフが目に入る。

「梨沙…お前…!」

遼太郎は既視感で目眩がし、膝から崩れ落ちた。

遼太郎の弟・隆次はその昔、自傷癖があった。
左手首を傷つけ、真っ赤に染まったタオルを巻き付けて部屋の真ん中で呆然としていたのを、遼太郎が発見した。

どうして、娘までも…。

梨沙の肩を摑むと、痛そうに顔を歪めた。バスタオルを離すと、左肩に傷。

「パパと同じ…」

小さな声で梨沙は呟いた。
遼太郎は愕然とする。自分の傷と同じ場所に梨沙は、自傷したというのか。

「どうしてこんなことを…?」
「…寂しくて」
「寂しい…?」
「もうすぐパパが帰っちゃうから…パパと同じ場所に痕が残ったら、安心するかと思って」
「安心…? お前…何を言ってる…?」

再び梨沙の瞳から涙が溢れ出し、遼太郎はそれ以上の言葉を失った。

何ということだろうか。全身が震える。
同じ場所に傷を負ったら、安心するだと?

やはり梨沙は、衝動的な行動を抑えられないのだ。

遼太郎は震える手で救急車を呼び、病院へ向かった。

***

幸い傷は浅く、2~3週間もすれば消えるだろう、はっきりと残ることはないと思う、と言われた。

病院を出て帰る時、弱々しくうなだれる梨沙の身体を支え、部屋に戻ってきた。

灯りも付けないまま、寝室のベッドの上で抱えた膝に顔を埋めて梨沙はすすり泣いている。遼太郎は窓際に佇み、何をどうしたらいいのかわからずにいる。

「パパ」

不意に梨沙は膝に顔を埋めたまま呼んだ。

「…どうした」
「私、本当はずっと前から好きな人がいるの」
「…」

遼太郎は唇を噛みしめる。
梨沙は顔を上げその方を見たが、彼の背後から通りの灯りが微かに差し込むばかりで、その表情は闇に沈んでいる。

「パパ、あのね…」
「梨沙、それ以上言うな」

まだ何も言っていないのに。梨沙は驚いた。

「どうして?」
「言わなくてもわかるし、言ってはいけないことだからだ」
「言ってはいけないこと…?」
「そうだ。それは許されることじゃない」
「何が…、誰の許しが必要なの?」

梨沙は声まで震えた。

「誰、の問題じゃない。倫理的にも、人としてもだ」

梨沙は自分が言おうとしていたことを遼太郎がほぼ完璧に理解していたことに更に驚いた。

「梨沙は勘違いしているだけだ。俺から離れたら、呆気なくそんな気持ちは勘違いだったと気づくだろう」
「勘違いじゃない! ずっと小さい頃から思ってきたの! 今までだってパパ、自分を無理に変えないでいいって言ってくれたじゃない! だから私…この気持ちは普通じゃないだろうなって思ったけど…否定しなくていいんだとも思った」
「今までのこととこれは別だ。いずれにしても、最大限の努力をして俺以外の誰かに気持ちが向かうようにした方がいい。相手が男であろうと女であろうと構わない。でも肉親は絶対にだめだ」
「でも私…他の男の人が怖い。パパや隆次叔父さんは平気なのに。他の男の人は怖いの。触られるのすら恐怖でしかないの」
「俺や隆次のことが平気なのは、肉親だからだ。逆に言えば肉親には求めてはいけないことがある」
「でも…私…こっちに来てからずっと楽しくて幸せな反面、苦しくて…こんなに好きで、それで苦しくて…」
「やめろ」

怒られる時とまた違った、冷たい、突き放すような声色。
いや、色を失った、声。
梨沙は遼太郎を失ってしまうような気がした。

***

灯りが消え、どれくらいの時間が経っただろうか。

隣のベッドで、遼太郎は眠っているようだった。

梨沙はこっそり起き上がるとジップアップパーカーを取り、音を立てないようにして部屋を出た。パーカーの下は眠る時の格好、タンクトップに短パン姿だ。8月とはいえ、ベルリンの夜は冷える。

それでも構わず走る梨沙の足は、昨日連れて行ってもらったKREUZBERGクロイツベルクに向かっていた。

遼太郎もふと夜中に目を覚ます。単に眠りが浅かったせいか、それとも親の本能か。
隣のベッドに目をやった時に、そこに梨沙がいないことに気づいた。

慌てて飛び起き灯りを点けるが、ベッドは空。

リビングにもバスルームにも梨沙の姿はない。
玄関の靴はなくなっていた。

「梨沙…!」

時計を見ると午前1時半を回っていた。




#8へつづく

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