【連載小説】あおい みどり #2
~ 翠と蒼
蒼が現れたのは、今から半年ほど前の、翠がもうじき28歳になる春、4月の半ばのことだった。
春先は環境の変化でストレスを感じやすかった。学生の頃はクラス替えがストレスだったように、社会人になっても、それは変わらない。
蒼に言わせると、彼が初めて聞いた音は "シャワーの水しぶき" だったという。場所は薄暗いバスルーム。
湯気の中から朧気だった視界がはっきりしてくると、なぜ電気を点けずにキャンドルの灯りだけなのかと訝しみ、そして鏡に写った裸の自分を見て驚いた。
"え…これ、俺だよな…? なんで…女の身体…?"
バスルームを出ると、見たことのない家にいる。脱衣籠にも女物の下着。蒼は男のものそれを探したが、鏡に映る自分の姿をもう一度確認して、両手で自分の身体のあらゆる部分を弄って、断念した。ショーツを着け、長袖のシャツを被る。異様な窮屈さを感じた。
2階建ての一軒家。廊下の奥、はめガラスのドアの向こうからTVの音が漏れ聞こえる。リビングに誰かいる。
何となく顔を合わせてはいけない気がしたためそちらには向かわず、2階に上がった。
部屋に入り電気を点けると、モノがあちこちに散乱していて蒼は顔をしかめた。汚すぎる。
部屋の中央で立ち尽くし、しばし思考を巡らせた。
そうして自分は “外” に出て来たのだ、という事を悟った。
そして蒼は翠の存在を認識する。それがこの身体の、本来の持ち主であることも。
翠の姿が、朧気ながら見えてくる。
鎖骨の下辺りまでのミディアムヘア、スッキリとした顔立ちだが笑うと少し幼くなる。彼女は今、暗い “部屋” に膝を抱えて閉じ籠もっている。
蒼は彼女が抱えてきた、これまでの人生をも認識した。モノクロの無声映画を再生するかのように、蒼の脳裏に翠に起こった出来事が流れ出す。
“無理して愛想振りまいて、やっぱり無理とか、そりゃねぇだろ。そのくせ翠って奴は変なところクソ真面目なくせに異様に自信がない。何でもテキトーにやり過ごしゃいいのに。”
蒼はベッドの上で大の字になって寝転び、目を閉じる。
そうしてフッと、姿を消した。
*
気がつくと、翠はベッドで仰向けになっていた。長袖のTシャツと、下はショーツ一枚。
「あれ…なんで…こんな格好で寝ていたんだろ…うたた寝? にしても…」
翠はしばらくの間、記憶が飛んでいることに気がついた。シャワーを浴びて…それから…そこから先が全く思い出せない。
ぐぅ、とお腹が鳴った。
時計は既に0時過ぎを指している。お腹が空いている。晩ご飯を食べなかったのか。それすら思い出せない。
そして、いつも乱雑な部屋が片付いている。どういうことだろう?
階下に降りると両親は既に寝室にいるのか、ひっそりとしている。
キッチンに行ってみたが、何を食べたのか全く思い出せない。いやきっと、何も食べていない。両親と会話した記憶もない。
「やだ…そんなに熟睡してたのかな…」
*
翌朝、朝食のテーブルで母親からこんな事を言われた。
「翠、もう食欲は大丈夫なの?」
「え…どういうこと?」
「昨夜あなた、頑なに夕食を摂ろうとしなかったでしょ。すごい剣幕で "いらない" なんて言うから」
翠は言葉を失った。そんな事を言った覚えは一切ない。寝ぼけたのだろうか?
「うん…食欲は大丈夫」
「そう。しっかり食べてよね。あなたがしっかりしてくれないとお母さん…」
「わかってる。それよりお母さん、昨夜私が寝ている間に、私の部屋に入ってきた?」
「えぇ? 何のこと?」
「私の部屋片付けたの、お母さんじゃないの?」
「何もしていないわよ。やぁね、小人でも現れたのかしら」
そう言って笑う母に翠は苛立った。
そしてその日を境に翠は記憶が飛ぶことが増える。大抵は家にいる時、入浴中から就寝までの間の記憶がないことが多かった。仕事に影響はなかったものの、気味悪く思った。
何が起こっているのだろう。
***
翠が幼い頃から両親は、翠の目の前で夫婦喧嘩をするのが日常茶飯事だった。ASD特性のある父は地頭が非常に良いものの言葉は辛辣で、相手の気持ちを汲んだりせず、言葉巧みに論破する。それに苛つき感情的になった母がヒステリックになると、父の手が飛んだ。
母はカサンドラ症候群*となった。
夫婦喧嘩のあと、母は翠を暗い部屋の片隅でいつもこう言った。
"男には気をつけるのよ。怪我するんだから。
あなたを守れるのは私だけ、私を守るのもあなた。だから離れちゃだめよ"
顔が痛くなるほど、母は両手で翠の顔を挟んで言い聞かせた。
翠が友達と遊ぶ際に男の子が混じっていたりすると母は怒り、翠が泣きそうになると「あなたのことを思って言っているのよ!」と、母の方が泣き出さんばかりだった。
母は明らかに過干渉だった。
こうした過去の出来事により、元々翠が親からの遺伝で持っていた神経発達症の特性が悪化した可能性はある。
ただし翠が正式に神経発達症の診断を受けるのは、彼女が就職してからである。
*
"男には気をつけて" と言われて育ってきた翠は、女の友人ばかりだった。
甘さのない相貌、かつ色白なことが幸いし、翠は女子から人気があった。また学生の頃は、頭が良くてユーモアセンスもあった翠の周りには人が集まっていた。歯に衣着せぬ物言いも、一部の人からは反感も買ったが、友人らにとっては "クール" に映ったようだった。
しかし本当は沢山の人に囲まれたいわけではなかった。むしろとても疲れるため、苦手だった。
そして翠は急に嫌気が差すのである。
誰とも関わりたくない。一人にして欲しい。放っておいて欲しい。
高校を卒業した時、そして大学を卒業した時。
それまでずっと行動を共にしてきた友人らの連絡先を全てブロックした。とにかく急に、嫌になるのだ。
ブロックするのは良くないことだとわかってはいる。どうしてそんな事をしてしまうのだろうとも思う。
でも。
そんな事をしておきながら、自分が他人にどう思われているかはとても気になる。やることなすこと、自信が持てない。矛盾だらけだ。
*
社会人になってから、仕事は時間はかかるがなるべく丁寧に行った。忘れっぽいこともあったから、些細なミスで怒られたくないし、ダメな人だと思われたくなかった。
机の周りはメモで溢れかえった。
ただやはり社会人になると、学生の頃のようにそうやすやすと逃げたり遮断することは出来ない。溜まったメモから今必要な情報を引き出すことが出来ずパニックになることもあった。
後輩が出来ると、よく見せよう、変な先輩だと思われないようにしようと、必要以上に気を遣い、自分を装った。
翠はだんだん苦しい気持ちになることが増えた。
不注意によるミスと寝坊が多発したことを受けて、上司から産業医面談を受けることを促され、更に医療機関の診察を受けるよう指示された。そこで訪れた精神科でASDとADHDであると診断を受けた。
ASD、父親と一緒だ。
そう思うとゾッとした。うっすらとわかっていたものの、やはりショックだった。
診察をした医師は女医だった。男の医師は嫌だと産業医に懇願し紹介してもらった。
けれど、女性だからオールオッケーかというとそうではなかった。医師はどこか母親に似た雰囲気があり、ちょっとした言葉尻が翠の癇に障った。
この医者とは相性が合わない。返って苦痛。そう思った。
カウンセリングを受けるか訊かれ、これ以上はごめんだと思い「結構です」と断り、必要になった時だけ薬をもらうために医師の元を訪れたため、よく注意された。
***
翠の記憶喪失…。湯船の中で翠は蒼と "交代" するようになっていた。
翠は暫くの間、蒼の存在を知らなかった。蒼が翠の心身を占領している間は、翠にはその記憶がなかったからだ。
けれど、蒼は翠を知っている。翠の記憶も持っている。
やがて蒼は翠に語りかける。
その存在を、知らしめたのだ。
それは翠が翠でいる時ではなく、交代した蒼が翠に向かって話しかけた。だから翠は意識の中でその声を “聞” いた 。身体の感覚はフワフワとしていて実体感がなかったことを憶えている。
「翠、お前何でも自分で抱え込もうとするだろ。そんなんじゃ潰されちまうぞ」
『え…誰…?』
「蒼だよ。ここしばらくお前のこと見て来たんだ。気づかなかったのか?」
『蒼…? なに…どういうこと?』
「気付いてなかったかよ。だとしたらすぐに状況理解できないもは無理ないよな」
『待って。本当に誰? どこから話しかけてるの?』
「お前と同じ場所からだよ。とにかく、お前がぶっ壊れないように俺が見張ってるってわけだ」
目が覚めた翠は、夢を見たと思った。
けれどはっきりと彼を覚えている。
少し掠れたような、やや高めの声。切れ長の一重の目に真っ直ぐな眉、通った鼻筋、薄い唇、肩に付くか付かないかの黒い髪…。
明らかに男性だったが、不思議と嫌な感じはしなかった。翠は一人っ子だが、兄がいたらあんな感じなのかな…とぼんやり考えた。小さい頃、兄や姉の存在に憧れていた事を思い出した。
同時に幼い頃の記憶は、翠の心に蓋をする。
そうして起き上がり、ベッドサイドに置かれたメモを見て驚く。
明らかに自分のではない筆跡でこう書かれていた。
#3へつづく
【脚注:カサンドラ症候群】
【参考サイト】