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【連載小説】あおい みどり #10

このお話はフィクションであり、病状・医師やカウンセラーの対応については物語の進行上、事実と異なる場合があります。予めご了承ください。

〜 翠

私は南條と対面するのがますます怖くなっていた。

蒼が南條と会話しているのを上から(俯瞰する感じで)見ているのがちょうど良いような、けれど相変わらずそんな蒼が羨ましくて妬いたり。

もうしばらく私は南條の前に現れていないが、彼は毎回私の事を気にかける言葉を蒼に投げかける。それが嬉しくてたまらない。
その時の蒼は眉間に皺を寄せ、少し嫌そうな顔をする。蒼は南條が私の話をするのが面白くない。

『お前、どういう気持ちで俯瞰してるんだよ。全部聞こえてるんだろ? 南條先生、あんだけお前のこと気にしてるのに、なんで無反応なんだよ』

やけっぱちの蒼にそう言われても、言えない。
怖かった。

私はどんな顔をして南條と対面したらいいのか。面と向かっただけで顔も身体も火で炙ったかのように真っ赤になって、目も当てられなくなったらどうしたらいいのか。

ただ私は彼の声を聴いているだけでいい。
その柔らかで優しいまばたきとそのまつ毛の動きを、上品にペンを走らせる美しい手を眺めているだけでいい。
時折ボサボサの髪だけど、彼の襟足で髪の先が少しくるんとしている部分や、頭の天辺で揺れる浮き毛すら愛おしくてたまらない。

こんな気持ちは初めてだ。
けれどとても苦しい気持ち。

彼は鑑賞の対象なのだ。芸術作品なのだ。
触れてはいけない。

蒼に妬きながら、蒼がいなくなっては困る。
そんな状態に陥っていた。

そんな中、蒼が母を南條の元へ連れて行くと言い出した。父は仕事を理由に頑なに拒否したため、母だけになるという。蒼も父のことは徹底的に無視してやる、と言っている。
それよりも…。

『やめて。南條先生に母を診せないで』
「なんでだよ。先生に言われてるんだよ。大事なことだからって」
『診て欲しくないの。別のカウンセラーのところにやってよ』
「無茶言うなよ。俺たちの事を誰よりも知ってる南條が話すから意味があるんだろ?」
『嫌なの! 蒼にはわからないよ、お母さんのこと』

男嫌いな母が南條に罵声でも浴びせたら、どうしたらいいというのだろう。そんな汚らわしいことして欲しくない。

もう一方で。

もし母も南條のカウンセリングを受けることになってしまったら。
嫌だ。
母に南條を取られたくない。

「そんなに嫌なら、出てくればいいだろ。交代すればいいだろ。簡単なことじゃないか」
『…!』

交代。
私の身体に私が戻ること。

当たり前のことなのに、まるで丸裸の状態で無数の針の嵐が吹き荒れる砂漠に放り出されるような気持ちになる。

裸の私を包むコートが必要だ。

南條の姿が浮かぶ。
そんな私のコートは、あの人であって欲しい。

そんな事を考えて、顔から火が出そうになる。

何を考えているの私。だめよ。見つめているだけでいいのだから。
近づいたら…。

「出来るのか? もうだいぶ籠りっぱなしだったし、交代の仕方忘れたんじゃない?」

蒼に言われ、以前私達が "交代の場" としてきていたバスルームで入浴中に試したが、変わることは出来なかった。
まるで足に錘が繋がっているかのような。

その鎖は、母のあの言葉。


近づいたら…傷つくから…きっと。





~蒼

俺は翠の両親とも、当然うまく行ってない。母親は俺が翠に戻っていることを期待して顔を見るたびにすがって来るが、まだ俺だとわかると「翠を返せ!」と両手で俺の身体を叩いた。
そうされると俺もカッとなる。手を振り上げたところで南條医師の言葉が蘇る。

『蒼さん、あなたは勝者であり続ける必要がある。たとえ喧嘩を売られても、買わない者が常に勝ちます』

俺は振り上げた手を下ろし、丸腰になる。無言で、怒りだけはこの目に込めて、睨みつけてやる。そうするとしばらくボカボカ叩き続けていても、虚しくなるのか、泣きそうな顔をして、やめる。

父親は俺のこと、翠が妙な演技を続けているのだろうと信じてやまず、相手にしない。ただ、ヒステリックになる母親に対して声を荒らげたり、時には手を挙げた。

そんな時、頭の奥で稲妻が走るような感覚があった。閃光のような頭痛。
あぁ翠。気の毒に。

「おじさん、おばさん、あのさ」

俺は翠の両親の顔を交互に見ながら言った。

「翠に戻ってきて欲しかったら、ついて来て欲しいところがあるんだ」

母親は訝しげに俺を睨む。

「怪しいところじゃないよ。精神科の先生のところ」
「精神科?」
「おじさんがASDなの知ってるだろ? 翠もその影響受けてるのも知ってるよね? 二次障害ってやつだよ。あんたたち2人が翠が小さい頃から目の前でとんでもねぇ事して来たから。特におばさん、あんたが翠にどうしようもねぇ躾してきたから、俺が現れたんだよ。翠が "もう耐えられないから助けて" ってな。翠はもう半年近く、精神科の先生のところに通ってるんだよ。あ、正確に言うと最近は俺が通っていることになるけどな」

父親も母親もあんぐりと口を開け、俺を見ている。
ケッ、どうしようもねぇな。

「翠、まぁ俺に任せておけ」
『…』

以前翠は、南條医師に母親を診てもらうことを拒んだ。とにかく親を巻き込みたくないらしい。親が原因だってのに、本当にわかんねぇ奴だな。

でも俺にもこれには裏がある。
翠が困っている間は、俺は消えないということだ。交代を試みても変われないみたいだし、であれば。

俺は南條のために動く。
今の翠の気持ちなんか、知ったことか。


***


南條医師はいつもの菩薩の笑みを浮かべている。しかし今日ばかりはその口元にやや緊張が見受けられた。

「里中さん、よくお越しくださいました」

南條医師は名刺を差し出し挨拶している。翠の母親はその肩書を見て顔を強張らせている。"精神科Ph.D" に "臨床心理士"だもんな。

「先生、親父さんは連れてこられなくてすみません。アイツ頑なに "仕事が" とか言って来ようとしなくて。家族のことなんかどうでもいい男なんですよ」

俺の言葉に南條医師は困ったような笑みを浮かべつつ、母親に向き合った。

「里中翠さんは職場の産業医に診察を受けることを勧められ、精神科にてASDとADHDであるとの診断を受け、しばらくお薬を飲んで日常生活を送っていたとお聞きしています。ですが約半年ほど前に私の元を訪れ、週に1度カウンセリングを受けるようになっています。きっかけは…彼、蒼さんです」

穏やかな声で母親の目を見ながら慎重に説明をし、俺を振り返った。

「解離性同一症といいます。かつては『多重人格障害』と呼ばれていたものです。聞いたことはありますか?」

母親はうんともすんとも答えず、南條医師を見ようともせず口をへの字に結んでいる。

「解離性同一症の原因は、幼少期に受けた心的外傷によって壊れそうになった心を、別の人格を登場させて痛みの肩代わりをしてもらうため、と言われています」
「幼少期って!…うちに原因があるってことですか」

母親は声を震わせた。おいまさか、この場で白を切る気か、このおばさん。

「今あなたの隣にいる蒼さん。彼は翠さんの交代人格です。蒼さんは翠さんが子供の頃、ご両親が翠さんにどんな姿を見せていたのか、知っています。彼はそれを僕に話してくれました」

母親はキッと俺を睨んだ。

「でまかせに決まってます!」
「でまかせかどうか」

俺はぎょっとして目を見張った。南條医師の声はこれまで聞いたこともないように太く、突きつけるような強さがあったからだ。母親もビビって黙った。

しかし南條医師はすぐにフッと、いつもの笑みを浮かべる。
怖い人だ。
俺が彼に抱いた第一印象は、強ち揺るがないものかもしれない。

「ご主人はASDをお持ちだと伺っています。あなたはそれによってカサンドラ症候群となり、やりきれない思いを全て娘さんにぶつけた。翠さんはご主人からの遺伝でASDやADHDを発症している。二次障害を非常に生みやすいのです。蒼さんは翠さんが幼い頃から存在してたかもしれない。けれど大人になるまでは翠さんも蒼さんもひっそりと頑張ってきた。ただ最近は社会的なストレスが重なり、蒼さんが表に出てきたのです。翠さんを助けるために」

母親は呆然としている。
南條医師の言葉は、俺が話したことと完全一致してるからだろ。ざまぁみろだ。

「里中さん。あなたも苦しい思いを何十年も抱えて生きてこられた。たった一人の娘は拠り所になっても致し方ない。ですが、それが翠さんの心にのしかかっています。娘さんとの距離感を、程よく持たなくてはいけません。翠さんはもう子供ではないのです。立派な一人の、大人の女性です」

その時、俺の頭の中で閃光のような痛み。
翠。
叫んでいる。

「先生」

たまらず俺は声を挙げる。

「蒼さん、どうしました?」
「翠が…」

その言葉に南條の瞳が鋭く光った。真剣な表情。

「翠さんが、どうしたんですか」
「…叫んでる」

南條医師は俺を凝視した。母親もわけが分からずといったように呆然と俺を見ている。


翠、お前…。
お前さ…。






#11へつづく


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